第20話:怒り
「アイツがいた」
その一言だけで、先生は静かに頷いた。
「そうか」
それだけだった。
拍子抜けするほど、あっさりとした肯定。
私は思わず、隣に座る先生の横顔を見つめた。
いつもの先生なら、こうはいかないはずだった。
確証もない、証言もない、
ただの直感――そんなものを、
この人は簡単には信じない。
「偶然、四回続けば、それはもう法則だ」
と、常に根拠を積み上げてから初めて確信に変える、そういう人のはずだった。
なのに、今は。
何も問い詰めず、何も疑わず、ただ「そうか」とだけ言って、私の言葉を愚直なまでに受け止めている。
その静かな信頼が、じんわりと胸の奥に染み込んでくる。
嬉しいはずなのに、同時にどこか落ち着かない。
これまで積み上げてきた冷徹な合理性を、この人は今、私一人のために手放したのだろうか。
そんな感傷に浸る間もなかった。
辺りが騒がしいこと。
それに先に気づいたのは先生の方だった。
◆
「……何だ、あれは」
先生の声が、低く尖った。
視線の先、町の外れの方角から、人々のざわめきが風に乗って流れてくる。
悲鳴と呼ぶには弱く、しかし明らかに、ただ事ではない気配を孕んだ声だった。
先生は、迷いも見せずにその方向へと歩き出す。
私は慌てて後を追った。
たどり着いたのは、今にも崩れ落ちそうな、ぼろぼろの小屋だった。
傾いた壁、隙間だらけの屋根。
その中から、堪えきれない啜り泣きが漏れ聞こえていた。
湿った、カビの匂いが、家の外にまで滲み出ている。
長く雨風に晒され、日の光もろくに入らない場所特有の、あの重たく澱んだ匂い。
嗅いだ瞬間、なぜか胸の奥がざわついた。
小屋の周りには、近所の住人らしき人々が、遠巻きに集まっていた。
誰もが眉をひそめ、しかしどこか他人事のような口ぶりで、囁き合っている。
「また、出たんだってよ」
「嫌ねぇ、この間もあったばかりなのに」
「まだ10歳くらいの子供だろ?」
「ええ、可哀想に。あの子が一人で靴磨きして、この家を支えてたっていうのに」
無責任な同情と、好奇心の入り混じった声が、耳障りに重なる。
先生の表情から、すっと何かが抜け落ちた。
いつもの平坦さとは違う、完全な無表情。
その瞳の奥が、まるで底の見えない穴のように、昏く沈んでいく。
「その子供の名前は」
先生の声は、これまで聞いたことがないほど低かった。
「なんだ、ひょっとして知り合いか?
……見たところアンタ、この町の人間じゃなさそうだがな」
野次馬の一人、恰幅の良い男が、訝しげに先生を見上げる。
先生は答えなかった。
ただ、じっと男を見据えている。
その沈黙に居心地悪くなったのか、近くにいた年配の女が、代わりに口を開いた。
「……テオくんよ。良い子だったのに」
その名前が、鼓膜を貫いた瞬間。
私は、全身の毛が逆立つような戦慄に襲われた。
カビの匂いが、急に息苦しいほど濃くなった気がした。
先生は、無遠慮なまでに小屋の中へと足を踏み入れた。
その表情からは、何も読み取れなかった。
いつもの冷徹さとも違う、感情そのものを凍らせてしまったかのような無表情。
それはまるで、少年の死を、まだどこかで信じたくないと言っているかのようだった。
土間の隅に、見覚えのある道具箱が転がっていた。
使い込まれた木箱、擦り切れた布、黒く艶を帯びた靴墨の缶。
金曜日、あの駅前で見たものと、寸分違わず同じだった。
先生の足が、その道具箱の前で止まる。
「クソが」
低く、短く、吐き捨てるような一言だった。
私は思わず、先生の横顔を見つめた。
これまで、こんな感情的な言葉遣いをする先生を、一度も見たことがなかった。
その声には、これまで積み重ねてきた冷徹さの奥に隠されていた、剥き出しの何かが滲んでいた。
そして。
――シエル。
セラファン様。
あの、光を纏ったような美しい微笑みと、この、カビと死の匂いに満ちた光景が、どうしても私の中で一つに結びつかなかった。
あの声は、あんなにも優しかった。
あの手は、あんなにも穏やかに祝福を与えていた。
なのに。
頭では、もう分かっているはずだった。
あの男が、この地獄を作り出した張本人なのだと。
けれど心のどこかが、頑なにそれを拒んでいる。
まるで、二つの異なる生き物を、無理やり同じ器に押し込めようとしているような、そんな軋みにも似た混乱。
奥の部屋から、啜り泣きが漏れ聞こえていた。
母親らしき女性が、二人の幼い子供を抱きしめながら、声を殺して泣いている。その傍らに置かれた小さな鍋からは、濃厚な匂いが立ち上っていた。
牛肉を煮込んだような、重く芳醇な香り。
そう、いつもと、何かが違った。
鍋の脇には、小さく切り分けられたパンが、一切れだけ残されていた。
母親は、それに一度も手を伸ばそうとはしない。
私は、道具箱に視線を落とした。
蓋の裏側、擦り切れた木目の上に、赤黒い文字が刻まれていた。
『もう、お兄ちゃんが嘘つかなくて済んで良かったよね?』
その一文を読んだ瞬間、喉の奥から込み上げるものを、私は必死に飲み込んだ。
先生は、道具箱の血文字を、長い間、黙って見つめていた。
やがて、静かに膝を折り、道具箱にそっと触れる。
その手つきは、まるで壊れ物を扱うかのように、驚くほど優しかった。
あの日、森で撃ち抜いた野ウサギに向けたのと、同じ手つき。
けれど今は、そこに何か、もっと違う質量の感情が込められているように見えた。
「先生……」
私が声をかけると、先生はゆっくりと立ち上がった。
その顔には、相変わらず何の表情も浮かんでいなかった。
けれど、道具箱を握る指先だけが、白くなるほど強張っていた。
「一言、交わしただけの相手だ」
先生は、誰に言うでもなく、そう呟いた。
「名前を聞いて、靴を磨いてもらって、金を払った。それだけの間柄だった」
声は、いつもと変わらず低く、平坦だった。
けれど、その平坦さの奥に、何か、抑えきれない熱のようなものが滲んでいるのが分かった。
「なのに、あいつは。まるでゴミでも棄てるみたいに」
その先を、先生は言わなかった。
言わないまま、道具箱をそっと元の場所に戻し、静かに立ち上がる。
私は、その背中を見つめていた。
これまで数え切れないほどの遺体を、数え切れないほどの悲劇を、先生は眺め続けてきたはずだった。
けれど、今この瞬間だけは、その背中が、いつもよりほんの少しだけ、重く見えた。
小屋の外で、噂話に興じる人々の声が、まだ遠く聞こえていた。
私は、紅を失ったままの頭に、そっと手をやった。
黒いベールの下で、私は静かに誓う。
いつか、必ず終わらせる。
この人の、この静かな怒りごと。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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