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告解者  作者: カナタ


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第20話:怒り






「アイツがいた」




その一言だけで、先生は静かに頷いた。




「そうか」




それだけだった。




拍子抜けするほど、あっさりとした肯定。




私は思わず、隣に座る先生の横顔を見つめた。




いつもの先生なら、こうはいかないはずだった。


確証もない、証言もない、


ただの直感――そんなものを、


この人は簡単には信じない。




「偶然、四回続けば、それはもう法則だ」




と、常に根拠を積み上げてから初めて確信に変える、そういう人のはずだった。




なのに、今は。




何も問い詰めず、何も疑わず、ただ「そうか」とだけ言って、私の言葉を愚直なまでに受け止めている。




その静かな信頼が、じんわりと胸の奥に染み込んでくる。




嬉しいはずなのに、同時にどこか落ち着かない。




これまで積み上げてきた冷徹な合理性を、この人は今、私一人のために手放したのだろうか。




そんな感傷に浸る間もなかった。




辺りが騒がしいこと。




それに先に気づいたのは先生の方だった。







「……何だ、あれは」




先生の声が、低く尖った。




視線の先、町の外れの方角から、人々のざわめきが風に乗って流れてくる。




悲鳴と呼ぶには弱く、しかし明らかに、ただ事ではない気配を孕んだ声だった。




先生は、迷いも見せずにその方向へと歩き出す。




私は慌てて後を追った。




たどり着いたのは、今にも崩れ落ちそうな、ぼろぼろの小屋だった。




傾いた壁、隙間だらけの屋根。




その中から、堪えきれない啜り泣きが漏れ聞こえていた。




湿った、カビの匂いが、家の外にまで滲み出ている。




長く雨風に晒され、日の光もろくに入らない場所特有の、あの重たく澱んだ匂い。




嗅いだ瞬間、なぜか胸の奥がざわついた。




小屋の周りには、近所の住人らしき人々が、遠巻きに集まっていた。




誰もが眉をひそめ、しかしどこか他人事のような口ぶりで、囁き合っている。




「また、出たんだってよ」


「嫌ねぇ、この間もあったばかりなのに」


「まだ10歳くらいの子供だろ?」


「ええ、可哀想に。あの子が一人で靴磨きして、この家を支えてたっていうのに」




無責任な同情と、好奇心の入り混じった声が、耳障りに重なる。




先生の表情から、すっと何かが抜け落ちた。




いつもの平坦さとは違う、完全な無表情。




その瞳の奥が、まるで底の見えない穴のように、昏く沈んでいく。




「その子供の名前は」




先生の声は、これまで聞いたことがないほど低かった。




「なんだ、ひょっとして知り合いか?


……見たところアンタ、この町の人間じゃなさそうだがな」




野次馬の一人、恰幅の良い男が、訝しげに先生を見上げる。




先生は答えなかった。


ただ、じっと男を見据えている。




その沈黙に居心地悪くなったのか、近くにいた年配の女が、代わりに口を開いた。




「……テオくんよ。良い子だったのに」




その名前が、鼓膜を貫いた瞬間。




私は、全身の毛が逆立つような戦慄に襲われた。




カビの匂いが、急に息苦しいほど濃くなった気がした。




先生は、無遠慮なまでに小屋の中へと足を踏み入れた。




その表情からは、何も読み取れなかった。




いつもの冷徹さとも違う、感情そのものを凍らせてしまったかのような無表情。




それはまるで、少年の死を、まだどこかで信じたくないと言っているかのようだった。




土間の隅に、見覚えのある道具箱が転がっていた。




使い込まれた木箱、擦り切れた布、黒く艶を帯びた靴墨の缶。




金曜日、あの駅前で見たものと、寸分違わず同じだった。




先生の足が、その道具箱の前で止まる。




「クソが」




低く、短く、吐き捨てるような一言だった。




私は思わず、先生の横顔を見つめた。


これまで、こんな感情的な言葉遣いをする先生を、一度も見たことがなかった。




その声には、これまで積み重ねてきた冷徹さの奥に隠されていた、剥き出しの何かが滲んでいた。




そして。




――シエル。




セラファン様。




あの、光を纏ったような美しい微笑みと、この、カビと死の匂いに満ちた光景が、どうしても私の中で一つに結びつかなかった。




あの声は、あんなにも優しかった。


あの手は、あんなにも穏やかに祝福を与えていた。




なのに。




頭では、もう分かっているはずだった。




あの男が、この地獄を作り出した張本人なのだと。




けれど心のどこかが、頑なにそれを拒んでいる。




まるで、二つの異なる生き物を、無理やり同じ器に押し込めようとしているような、そんな軋みにも似た混乱。




奥の部屋から、啜り泣きが漏れ聞こえていた。




母親らしき女性が、二人の幼い子供を抱きしめながら、声を殺して泣いている。その傍らに置かれた小さな鍋からは、濃厚な匂いが立ち上っていた。




牛肉を煮込んだような、重く芳醇な香り。




そう、いつもと、何かが違った。




鍋の脇には、小さく切り分けられたパンが、一切れだけ残されていた。




母親は、それに一度も手を伸ばそうとはしない。




私は、道具箱に視線を落とした。




蓋の裏側、擦り切れた木目の上に、赤黒い文字が刻まれていた。




『もう、お兄ちゃんが嘘つかなくて済んで良かったよね?』




その一文を読んだ瞬間、喉の奥から込み上げるものを、私は必死に飲み込んだ。




先生は、道具箱の血文字を、長い間、黙って見つめていた。




やがて、静かに膝を折り、道具箱にそっと触れる。




その手つきは、まるで壊れ物を扱うかのように、驚くほど優しかった。 




あの日、森で撃ち抜いた野ウサギに向けたのと、同じ手つき。


けれど今は、そこに何か、もっと違う質量の感情が込められているように見えた。




「先生……」




私が声をかけると、先生はゆっくりと立ち上がった。




その顔には、相変わらず何の表情も浮かんでいなかった。


けれど、道具箱を握る指先だけが、白くなるほど強張っていた。




「一言、交わしただけの相手だ」




先生は、誰に言うでもなく、そう呟いた。




「名前を聞いて、靴を磨いてもらって、金を払った。それだけの間柄だった」




声は、いつもと変わらず低く、平坦だった。




けれど、その平坦さの奥に、何か、抑えきれない熱のようなものが滲んでいるのが分かった。




「なのに、あいつは。まるでゴミでも棄てるみたいに」




その先を、先生は言わなかった。


言わないまま、道具箱をそっと元の場所に戻し、静かに立ち上がる。




私は、その背中を見つめていた。




これまで数え切れないほどの遺体を、数え切れないほどの悲劇を、先生は眺め続けてきたはずだった。




けれど、今この瞬間だけは、その背中が、いつもよりほんの少しだけ、重く見えた。




小屋の外で、噂話に興じる人々の声が、まだ遠く聞こえていた。




私は、紅を失ったままの頭に、そっと手をやった。




黒いベールの下で、私は静かに誓う。




いつか、必ず終わらせる。


この人の、この静かな怒りごと。

お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。

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