第19話:視線
夢のようだった。
少なくとも、あの場所に身を置く信徒たちにとって、この時間は彼が用意した完璧な舞台装置だったに違いない。
私は、陶酔の表情を浮かべる会衆の中央で微笑む男を、憎悪を押し殺して睨みつけ、その場を後にした。
その時、私は気づいていなかったのだ。
「見る者は同時に、見られる者である」という、この街の残酷な掟を。
私が大聖堂の扉へ背を向けたその一瞬。
喝采を浴びる男の視線が、私の漆黒のベールを射抜いていたことに。
「……セラファン、様ね?」
私は出口へと急ぎながら、周りの信徒達が彼に呼びかけていたその名を
唇の中で何度も咀嚼する。
その男の視線が自分を追い続けていることなど露知らず、私は群衆の影に紛れるようにして、冷たい外の空気の中へと消えていった。
◆
祭壇の奥で、セラファンは説教の言葉を紡ぎながら、無意識のうちに視線を会衆の隅へと滑らせていた。
見慣れた顔、見慣れた祈り、見慣れた涙。
いつもの、退屈なまでの日常。
――なのに、あの黒いベールの女は、誰だ。
信徒名簿に記憶のない、初めて見る後ろ姿。
俯き加減の所作。
祈りの中に馴染みきっていない、硬い肩の線。
大した違和感ではない。
この街には常に、新しい迷える羊が訪れる。
それだけのことだ。
説教を終え、祝福を捧げる間も、思考の隅で執拗な音が鳴り続けていた。
あの女はどこへ消えた。
なぜ、自分の「記憶」に入っていない。
説教を終え、彼が祭壇へ戻る頃には、女の姿はもう会衆の海に溶けて消えていた。
セラファンは、自分でも説明のつかない微かな苛立ちを覚える。
――どこかで、会ったことがあるような。
いいや、そんなはずはない。
彼は自分の「客」の顔を、一人残らず正確に記憶している。
忘れるはずがない。
これまで一度も。
なのに、あの後ろ姿だけが、記憶の底の、もっと昏く澱んだ場所を、指先で触れるように揺らしていく。
―――いや、焦る必要はどこにもないさ。
彼女には再びどこかで会える。
言葉では説明のつかない確信。
それはまるで高揚すら感じさせるかのような。
セラファンは静かに祭壇へと向き直った。
祭服の重みと、会衆の熱狂を背に受けて。
その微笑みは、今日も変わらず、神々しいまでに美しかった。
けれど、胸の奥に残った小さな棘だけは、どうしても取り除けなかった。
――ああ、そうか。
唯一、ふと浮かんだのは、こんな益体もない感傷だった。
彼女に、黒は似合わない。
もっと違う色が、似合うはずなのに。
その考えが、なぜ自分の中に浮かんだのか。
セラファンは、その答えを探すことをやめた。
踵を返し、再び信徒達へと慈愛の微笑みを向ける。
◆
大聖堂の重い扉を押し開けた瞬間、外の光と喧騒が、押し寄せるように私を包んだ。
石段を降りきったところで、先生の姿が視界に入る。
柱の陰から、変わらぬ姿勢でこちらを見ていた先生は、私の顔を一目見るなり、表情を険しくした。
「何があった」
自分でも分かるほど、声が震えていた。
「ここではちょっと……」
私は視線を泳がせ、それだけ答えるのが精一杯だった。
先生は何も言わず、私の背を押すようにして、大聖堂前の広場から少しだけ距離を取った。
たどり着いたのは、小さな噴水のある駅前の一角だった。
石造りの噴水の中央には、翼を広げた天使の銅像が据えられている。
穏やかに天を仰ぐその横顔、流麗な衣の襞、片手を掲げた慈悲深い仕草。
――大天使、ミカエルか、あるいはガブリエルか。
誰の名を冠しているのかは分からない。けれど、その整いすぎた美しい相貌が、あの祭壇の男の面影と、あまりにも重なって見えた。
私は吐き気にも似た不快感を堪えながら、噴水の縁に腰を下ろした。
先生も、少し距離を置いて隣に座る。
水音だけが、静かに響いていた。
顔色は、ますます悪くなっていくのが自分でも分かった。
――ズキッ。
(くっ………。まるで割れるような痛みだ)
こめかみの奥で、あの頭痛が疼く。
私は膝の上で、手を強く握りしめた。
「確証なんて、どこにもない」
自分に言い聞かせるように、まずそう零した。
先生は、急かさなかった。
ただ、じっと私の言葉を待っている。
私は、噴水の中央に立つ銅像を、もう一度見上げた。
翼を広げ、慈悲深く微笑むその石の顔と、祭壇の奥で会衆に語りかけていたあの男の顔が、頭の中で重なって、離れない。
「アイツがいた………」
声が、掠れた。
「その、………記憶の中の『狼』とは………、
声も違う。顔も違う。あの時見た姿なんて、記憶の中で歪んでいるだけかもしれない」
先生はただ、待っていた。
私自身の言葉を。
「あれはシエルだった。まるで、全知全能の天使様みたいな顔で、笑ってた。」
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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