第18話:確信
日曜日の朝。
宿屋のダイニングに、野菜入りのスープの匂いが漂っていた。
焼きたてのバケットと、少し塩気の強いチーズ。ここ数日の中では、珍しく穏やかな朝食だった。
黙々とスプーンを口に運んでいた先生が、不意に顔を上げた。
「よく眠れたか」
「え……」
声が、上擦った。
実のところ、あまり良い眠りは得られなかった。
――ひょっとしたら、今日。
『狼』に、シエルに会えるかもしれない。
そんな考えが、頭の中で勝手に膨らんでは消え、膨らんでは消えを繰り返し、脳が妙に覚醒したまま朝を迎えていた。
だからだろうか、今朝の化粧は、自分でも気づかないうちに、いつもより少しだけ濃くなっていた。
先生には、その観察眼で何もかも見透かされている気がした。
「今日は……その頭巾はやめておけ」
先生はスプーンを置き、懐から一枚の布を取り出した。
「目立つ。代わりに、これを被っておけ」
差し出されたのは、漆黒のベールだった。
「どこに『ヤツ』が潜んでいるのか、分からないんだからな」
私は、その布を受け取った。
指先に、しっとりとした重みが伝わる。
黒。先生の色だ。
紅を脱いで、それを纏った途端――まるで、先生の影を借りているような、そんな気がした。
「……はい」
私は短く頷いて、それを頭から被った。
視界の端が、黒い布の縁に少しだけ翳る。
いつもの頭巾とは違う、慣れない重み。
けれど、それが不思議と、私の背筋を伸ばしてくれるようだった。
◆
大聖堂の前で、先生は足を止めた。
「自分は、ここで待つ」
「先生……?」
「万が一、何かあった時にすぐ動けるように、外にいた方がいい。中に入れば、自分の存在自体が目立つ」
それに、と先生は付け加えなかった。
ただ、大聖堂の巨大な扉を見上げる目に、油断のない鋭さが宿っているのが分かった。
私は小さく頷き、一人で石段を上る。
振り返れば、先生は柱の陰、街の喧騒に紛れるようにして、じっとこちらを見ていた。
その視線だけを支えに、私は大聖堂の扉を開け放つ
大聖堂の扉をくぐった瞬間、
街の喧騒は嘘のように消え去った。
代わりに満ちていたのは、幾百もの声が織りなす聖歌だった。
高い天井に反響し、幾重にも重なり合いながら、まるで建物そのものが呼吸しているかのように響き渡る。
ステンドグラスから差し込む朝の光は、昨日目にしたものよりもずっと鮮烈だった。
祭壇の奥、金の装飾を纏った十字架が、無数の蝋燭の炎を受けて眩く輝いている。
私は黒いベールを深く被り直し、後方の信徒たちの群れに紛れ込んだ。
祈りの言葉を唱える老人。
幼子を抱く母親。
誰もが同じ方向を向き、同じ光に照らされている。
その中で、私だけが違う色をした心を抱えていることに、ひどく落ち着かない気持ちになる。
鐘の音が鳴り止み、聖歌が最高潮に達したその時だった。
祭壇の奥から、白と金の祭服を纏った一人の男が、静かに姿を現した。
会衆のざわめきが、波が引くように静まっていく。
金色の髪が、ステンドグラスの光を受けて淡く輝いていた。その一挙手一投足には、寸分の無駄もない優雅さがある。
「本日も、主の御前に集われた皆様に、平安がありますように」
声が、大聖堂の隅々にまで、まろやかに満ちていく。
低く、穏やかで、まるで歌うようなその響き。
この場にいる誰もが、その声だけで魂を委ねてしまいそうな、そんな温かさを纏っていた。
甘い、香の匂いが、風もないのに広がってくる。
周囲を見渡せば、その熱狂の理由は一目瞭然だった。
隣に立つ老女は、両手を胸の前で組み、まるで我が子を見るような柔らかな眼差しを祭壇へ向けている。
その頬は、うっすらと上気していた。
杖をついた老人は、目を閉じ、口の中で何事か祈りを繰り返していた。
その表情には、深い安堵があった。
まるで、一週間の重荷を、この場所でようやく下ろせるとでも言うように。
若い夫婦は、幼子を抱きながら、二人揃って身を乗り出していた。
父親らしき男の目には、うっすらと涙の膜が張っている。
誰もが、飢えた者が食卓を前にしたような顔をしていた。
司祭様がいれば、大丈夫。
そう信じて疑わない顔だ。
この街のどこに、これほどまでに人々の心を掴んで離さない人間がいるだろう。
彼の声一つで、この場にいる何百もの魂が、等しく安らぎを覚えている。
その光景は、美しかった。
美しすぎて、私は思わず、寒気を覚えた。
私は、息を殺した。
―――ズキッ。
不定期に訪れる頭痛が襲う。
違う。
これまで私の記憶の中にあった、あの男の面影とは、何もかもが違う。
あの日、
あの森で聞いた声は、もっと歪んでいた。
記憶の奥で、いつもノイズがかったように霞んでいる、あの声とは。
口調も、声の高さも、纏う空気も
――何一つ、一致する要素なんてない。
なのに。
理屈ではない。
証拠もない。
ただ、心臓の奥、皮膚の内側、
もっと深いどこかが、
悲鳴のような確信を叫んでいた。
――あれは、あの男だ。
黒いベールの下で、私は自分の爪が掌に食い込むほど、強く拳を握りしめていた。




