第17話:赦しの部屋
小窓の向こうから、静かで低音な声が届いた。
それは心に染み入るような、あまりに優しく、あまりに温かい響きだった。
「いらっしゃい、テオくん。
……部屋の場所、迷わずに辿り着けましたか?」
彼のあまりに思いやりに満ちたその声は。
亡き父の声を、一瞬だけ思い出した。
僕はこくりと頷く。
顔は見えない。
けれど、その声の主がセラファン様であることは間違いなかった。
「は、はい。さっき、ちょっと分からずにその辺りを行ったり来たりしてたら、掃除のおじいさんが案内してくれました」
「よく、来ましたね」
セラファン様は僕を急かさなかった。
「ここではあなたが誰であろうと関係ありません。
立場も身分も、
そして……その罪ですらも。
神の御心のままに。
あなたの『お話ししたいこと』を、自由に教えてください」
セラファン様は、落ち着かない僕にそう告げた。
その言葉の端々に、僕という存在を一人前の人間として尊重する響きがある。
一度も敬語を崩さず、僕を対等な「迷える魂」として接してくれるその姿勢。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる音がした。
これまで、母ちゃんに心配をかけまいと飲み込んできた言葉。
弟たちに弱音を見せまいと殺してきた本音。
そして、パンを盗んだ時の、あのドロリとした罪の味。
それらすべてを、この小窓の向こうの暗闇へ流し込めば、許されるのではないか。
そんな甘美な錯覚が、僕の喉の奥を熱くさせる。
「……セラファン様」
「ええ、テオくん。ゆっくりでいいのです。私はここで、ずっとあなたの言葉を待っていますよ」
静寂の中、教会の重厚な空気が僕を包み込む。
僕は、震える指先を握りしめた。
言葉にすれば、もう戻れない。
ずっとそう思っていた。
母ちゃんにも、ピエールにも、クロエにも、絶対に知られてはいけないことだと。
でも、この暗闇になら。
「……僕、盗みをしました」
声が、自分のものじゃないみたいに掠れた。
「駅前のパン屋さんで。配達用の……パンを。母ちゃんと、弟と妹に、食べさせるために」
言ってしまった。
吐き出した瞬間、体の奥から何かが崩れ落ちるような感覚があった。
安堵なのか、恐怖なのか、自分でも分からない。
格子の向こうで、小さな衣擦れの音がした。セラファン様が、少しだけ身を乗り出したのかもしれない。
「……それは、辛かったですね」
その声には、責める色など欠片もなかった。むしろ、僕の言葉一つひとつを、大切な宝物のように受け止めているような、そんな温度があった。
「あなたは、ご家族のために、その小さな手で、精一杯戦ってきたのですね」
「……戦ってなんか」
僕は首を振った。
「僕はただ、盗んだだけです。
悪いことをしただけです。
母ちゃんには、靴磨きで稼いだお金で買ったんだと嘘までついて!
ぼく、僕は……ずっと、
ずっと嘘をついてるんです。あの日から……っ」
喉の奥から、堰を切ったように言葉が溢れ出す。
パン屋の店主の困惑した顔。
靴磨きで受けた理不尽な暴力。
母の枯れた頬。弟の泣き顔。妹の不安げな瞳。
僕はそのすべてを、暗闇に向かって差し出した。まるで、自分の罪を一つ残らず量ってもらうように。
長い沈黙があった。
そして、セラファン様が、静かに、けれどはっきりと言った。
「テオくん。あなたは、何一つ悪くありません」
「……え」
「人のものを盗むということは、確かに罪です。神の教えに反する行いです。けれど、あなたがその罪を背負ってまで守ろうとしたもの――家族への愛は、誰にも裁くことのできない、尊いものです」
温かい言葉の連なりが、僕の心を溶かしていく。
「主は、すべてを見ておられます。あなたがどれだけ小さな体で、どれだけ大きなものを背負ってきたか。その献身のすべてを」
僕の目から、涙が溢れた。
声を殺して、僕は泣いた。
誰にも見せられなかった涙を、この暗闇の中でだけは、自由にこぼすことができた。
僕の涙が止まるまで、セラファン様はただ静かに待っていてくれた。
急かす言葉も、咎める気配も、何もない。
ただ、暗闇の向こうに、確かな気配だけがあった。
しゃくり上げる息が、少しずつ落ち着いていく。
「……セラファン様。僕、どうしたら……」
僕がそう問いかけた、その時だった。
格子の隙間から覗く瞳の色が、一瞬だけ変わった気がした。
温かかったはずのその眼差しが、ほんの刹那、ひどく昏く、冷たい色を帯びたように見えた。
でも、それはきっと、僕の目が涙で歪んでいたせいだ。
すぐにまた、あの慈愛に満ちた声が、静かに囁いた。
「ねぇ、テオくん」
その声は、これまでよりもずっと近くに、ずっと甘く聞こえた。
「私は、君を本当に救ってあげたいのです」
「……救ってくれる?」
「ええ。今日のこの告解だけでは、まだ足りません。あなたの魂には、もっと深いところに、癒やされるべき傷がある。私にはそれが分かるのです」
僕は、格子の向こうの闇を見つめた。
何も見えないはずなのに、そこに確かな優しさがあると、僕はまだ信じていた。
「今夜。お母様も、弟さんも妹さんも、皆が寝静まった頃。もう一度、この部屋に来ることはできますか?」
「……夜、ですか」
「誰にも見られず、誰にも気づかれず。あなたと私だけの時間を、もう少しだけいただきたいのです。そうすれば、あなたの心はきっと、今よりもずっと軽くなる」
その声は、まるで子守唄のように優しかった。
僕は、迷いながらも、頷いていた。
「……はい。行きます」
「よかった」
セラファン様の声に、微かな笑みの気配が滲んだ。
「では、待っていますね、テオくん」
僕は震える足で立ち上がり、小さな扉を押して、告解室の外へ出た。
がらんとした身廊に、夕暮れの光が長く伸びていた。ステンドグラスの色彩は、朝のそれよりもずっと沈んだ、深い茜色に変わっている。
胸の中は、不思議と軽かった。
盗みのことも、嘘のことも、誰かに知られてしまうかもしれないという恐怖も――全部、あの暗闇の中に置いてきたような気がした。
セラファン様は、僕を救ってくれる。
きっと、今夜。
僕は聖書を強く抱きしめ、大きな扉を押し開けた。
外の風が、頬に張り付いた涙の跡を、冷たく撫でていく。
母ちゃんのところへ帰らなきゃ。
そして、また夜、ここへ戻ってくる。
誰にも見られず、誰にも気づかれずに。
僕は、自分を待つ小さな家族の顔を思い浮かべながら、夕暮れの街を駆け出した。
その足取りは、来た時よりもずっと軽やかだった。
それが、取り返しのつかない軽さだということに、僕はまだ気づいていなかった。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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