表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
告解者  作者: カナタ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/33

第17話:赦しの部屋






小窓の向こうから、静かで低音な声が届いた。




それは心に染み入るような、あまりに優しく、あまりに温かい響きだった。




「いらっしゃい、テオくん。


……部屋の場所、迷わずに辿り着けましたか?」




彼のあまりに思いやりに満ちたその声は。




亡き父の声を、一瞬だけ思い出した。




僕はこくりと頷く。


顔は見えない。


けれど、その声の主がセラファン様であることは間違いなかった。




「は、はい。さっき、ちょっと分からずにその辺りを行ったり来たりしてたら、掃除のおじいさんが案内してくれました」




「よく、来ましたね」




セラファン様は僕を急かさなかった。




「ここではあなたが誰であろうと関係ありません。


立場も身分も、


そして……その罪ですらも。


神の御心のままに。


あなたの『お話ししたいこと』を、自由に教えてください」




セラファン様は、落ち着かない僕にそう告げた。




その言葉の端々に、僕という存在を一人前の人間として尊重する響きがある。




一度も敬語を崩さず、僕を対等な「迷える魂」として接してくれるその姿勢。


張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる音がした。




これまで、母ちゃんに心配をかけまいと飲み込んできた言葉。




弟たちに弱音を見せまいと殺してきた本音。




そして、パンを盗んだ時の、あのドロリとした罪の味。




それらすべてを、この小窓の向こうの暗闇へ流し込めば、許されるのではないか。




そんな甘美な錯覚が、僕の喉の奥を熱くさせる。




「……セラファン様」




「ええ、テオくん。ゆっくりでいいのです。私はここで、ずっとあなたの言葉を待っていますよ」




静寂の中、教会の重厚な空気が僕を包み込む。




僕は、震える指先を握りしめた。




言葉にすれば、もう戻れない。


ずっとそう思っていた。




母ちゃんにも、ピエールにも、クロエにも、絶対に知られてはいけないことだと。


でも、この暗闇になら。




「……僕、盗みをしました」




声が、自分のものじゃないみたいに掠れた。




「駅前のパン屋さんで。配達用の……パンを。母ちゃんと、弟と妹に、食べさせるために」




言ってしまった。




吐き出した瞬間、体の奥から何かが崩れ落ちるような感覚があった。


安堵なのか、恐怖なのか、自分でも分からない。




格子の向こうで、小さな衣擦れの音がした。セラファン様が、少しだけ身を乗り出したのかもしれない。




「……それは、辛かったですね」




その声には、責める色など欠片もなかった。むしろ、僕の言葉一つひとつを、大切な宝物のように受け止めているような、そんな温度があった。




「あなたは、ご家族のために、その小さな手で、精一杯戦ってきたのですね」




「……戦ってなんか」




僕は首を振った。




「僕はただ、盗んだだけです。


悪いことをしただけです。


母ちゃんには、靴磨きで稼いだお金で買ったんだと嘘までついて!


ぼく、僕は……ずっと、


ずっと嘘をついてるんです。あの日から……っ」




喉の奥から、堰を切ったように言葉が溢れ出す。




パン屋の店主の困惑した顔。


靴磨きで受けた理不尽な暴力。




母の枯れた頬。弟の泣き顔。妹の不安げな瞳。




僕はそのすべてを、暗闇に向かって差し出した。まるで、自分の罪を一つ残らず量ってもらうように。




長い沈黙があった。




そして、セラファン様が、静かに、けれどはっきりと言った。




「テオくん。あなたは、何一つ悪くありません」




「……え」




「人のものを盗むということは、確かに罪です。神の教えに反する行いです。けれど、あなたがその罪を背負ってまで守ろうとしたもの――家族への愛は、誰にも裁くことのできない、尊いものです」




温かい言葉の連なりが、僕の心を溶かしていく。




「主は、すべてを見ておられます。あなたがどれだけ小さな体で、どれだけ大きなものを背負ってきたか。その献身のすべてを」




僕の目から、涙が溢れた。




声を殺して、僕は泣いた。




誰にも見せられなかった涙を、この暗闇の中でだけは、自由にこぼすことができた。




僕の涙が止まるまで、セラファン様はただ静かに待っていてくれた。




急かす言葉も、咎める気配も、何もない。




ただ、暗闇の向こうに、確かな気配だけがあった。




しゃくり上げる息が、少しずつ落ち着いていく。




「……セラファン様。僕、どうしたら……」




僕がそう問いかけた、その時だった。




格子の隙間から覗く瞳の色が、一瞬だけ変わった気がした。




温かかったはずのその眼差しが、ほんの刹那、ひどく昏く、冷たい色を帯びたように見えた。




でも、それはきっと、僕の目が涙で歪んでいたせいだ。




すぐにまた、あの慈愛に満ちた声が、静かに囁いた。




「ねぇ、テオくん」




その声は、これまでよりもずっと近くに、ずっと甘く聞こえた。




「私は、君を本当に救ってあげたいのです」




「……救ってくれる?」




「ええ。今日のこの告解だけでは、まだ足りません。あなたの魂には、もっと深いところに、癒やされるべき傷がある。私にはそれが分かるのです」




僕は、格子の向こうの闇を見つめた。


何も見えないはずなのに、そこに確かな優しさがあると、僕はまだ信じていた。




「今夜。お母様も、弟さんも妹さんも、皆が寝静まった頃。もう一度、この部屋に来ることはできますか?」




「……夜、ですか」




「誰にも見られず、誰にも気づかれず。あなたと私だけの時間を、もう少しだけいただきたいのです。そうすれば、あなたの心はきっと、今よりもずっと軽くなる」




その声は、まるで子守唄のように優しかった。


僕は、迷いながらも、頷いていた。




「……はい。行きます」




「よかった」




セラファン様の声に、微かな笑みの気配が滲んだ。




「では、待っていますね、テオくん」




僕は震える足で立ち上がり、小さな扉を押して、告解室の外へ出た。




がらんとした身廊に、夕暮れの光が長く伸びていた。ステンドグラスの色彩は、朝のそれよりもずっと沈んだ、深い茜色に変わっている。




胸の中は、不思議と軽かった。




盗みのことも、嘘のことも、誰かに知られてしまうかもしれないという恐怖も――全部、あの暗闇の中に置いてきたような気がした。




セラファン様は、僕を救ってくれる。


きっと、今夜。




僕は聖書を強く抱きしめ、大きな扉を押し開けた。


外の風が、頬に張り付いた涙の跡を、冷たく撫でていく。




母ちゃんのところへ帰らなきゃ。




そして、また夜、ここへ戻ってくる。




誰にも見られず、誰にも気づかれずに。


僕は、自分を待つ小さな家族の顔を思い浮かべながら、夕暮れの街を駆け出した。




その足取りは、来た時よりもずっと軽やかだった。




それが、取り返しのつかない軽さだということに、僕はまだ気づいていなかった。

お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。

もし少しでも気に入っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援していただけると執筆の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ