第16話:聖域
昇りはじめた陽光がステンドグラスを透過し、大聖堂の床に毒々しいほど色鮮やかな模様を描き出していた。
老人は無言で箒を動かし、埃を隅へ追いやっている。その機械的なリズムが、この場所の「静寂」をより重くさせていた。
「司祭様は、何人おられるんですか」
問いかける私の声は、
高く広い身廊に吸い込まれた。
「五人だ。
うち一人が、主任司祭様でいらっしゃる」
老人の手が止まることはない。先生が静かに一歩、間合いを詰める。
「その司祭に、会うことは可能か」
私も堪えきれず、続けて尋ねた。
「司祭様それぞれのお名前は?」
私の追撃に、老人の箒がピタリと止まった。
皺の奥の瞳が、初めて私たちを射抜くような鋭さを帯びる。
「……アンタたち、何でそんなことを訊く」
老人は答えを拒むように箒を持ち直し、背を向けた。
「今日は土曜日だ。
司祭様たちは、午後は皆さんお忙しい。さあ、早くお帰りなさい」
「忙しいとは、どういう意味だ」
先生の平坦な声が響く。
老人は箒を動かし続けながら、面倒そうに、だが拒絶しきれない声色で吐き捨てた。
「土曜日は……告解がある」
老人はそこでひと呼吸置く。
「毎週、多くの人が救われる日だ」
その言葉が、私の心臓を冷たく掠めた。
告解。
本来は、信徒がその罪を告白し神に祈りを捧げることで、その身を浄化する儀式。
先生は、それ以上問うことに意味はないと見切ったようだった。
重たい扉を内側から押し開ける。
外からの光が目に眩い。
軋む音を立てて扉を押し、外の光へと身を乗り出そうとした、その時だった。
背後から、風に溶けるような、しわがれた声が届いた。
「……明日。日曜日は礼拝だ」
振り返る。
老人は床を見つめたまま、独り言のように呟いていた。
「皆、神に祈りを捧げるのは自由だ。司祭様にも、そこで会えるだろうよ」
それきり、老人は何も言わなかった。
私たちは冷たい石畳を背に、
再び街の喧騒へと放り出された。
―――――
町の食堂の隅。
湯気を立てるスープは、冷めきっていた。私は手にした赤茶色の聖書を、白くなるほど強く握りしめている。
「先生……この聖書……」
「あぁ」
返ってきたのは、短い相槌だけ。
けれどその一言の奥に、これまでの空振りとは異なる、確信に満ちた重量感があった。
私は膝の上で拳を握り、決意を口にする。
「私、明日。礼拝に出てみます」
先生は深く、静かに頷いた。
その小さな動きだけで、私の迷いは消えていた。
私はその時、
神に近づこうとしているのだと思っていた。
その時の私はまだ知らなかったのだ。
明日足を踏み入れる礼拝堂が、
『狼』の巣穴そのものだったということを。
◆
土曜日、午後四時。
―――ゴーン、ゴーン。
大聖堂の鐘が、低く、長く鳴り響いた。
テオは、握りしめた聖書を胸に抱え、大きな扉の前に立っていた。
見上げるほどの高さの扉は、まるで巨人のために作られたかのようだった。
10歳の小さな体には、あまりにも不釣り合いな大きさ。
けれど、あの人はここにいる。
セラファン様が、僕を待っていてくれる。
震える手で、テオは重い扉を押した。
ぎい、と低い音を立てて、扉がゆっくりと開いていく。
中は、しんと静まり返っていた。
朝の礼拝の熱気も、信徒たちのざわめきも、今はどこにもない。
ステンドグラスから差し込む光だけが、がらんとした身廊に、色とりどりの模様を落としている。
テオは、その静けさに、思わず息を呑んだ。
まるで、世界から切り離された場所にいるようだった。
祭壇の奥、身廊の端に、大きな木の箱のようなものが据えられているのが見えた。
荘厳な彫刻が施された、背の高い調度品。
左右に小さな扉がついている。
あそこだ。
以前、司祭様がそう教えてくれた。
あの扉の向こうで、誰にも言えない秘密を、打ち明けることができるのだと。
テオは、聖書を抱きしめる腕に、力を込めた。
盗みのこと。
嘘をついたこと。
母や弟妹を騙し続けていること。
誰にも――母にさえ言えなかったことを、
あの人になら話せる。
あの人だけは、僕を裁かない。
そう信じて、ここまで来た。
テオは、小さな足音を響かせながら、その箱に向かって歩き出した。
一歩、また一歩。
近づくにつれ、あの日嗅いだ甘い香りが、微かに鼻をかすめた気がした。
震える指先で、片方の小さな扉に手をかける。
木の表面は、長い年月に磨かれ、驚くほど滑らかだった。
ゆっくりと、扉を引く。
中は、狭く、暗かった。正面に、小さな跪き台。その先、格子の嵌まった小窓が、固く閉ざされている。
テオは、教わった通りに膝をつき、両手を組んだ。
心臓が、痛いくらいに早鐘を打っている。
――どうか、聞いてください。
祈るように、テオは待った。
やがて、かすかな衣擦れの音と共に、格子の向こうで気配が動いた。
小窓が、静かに開かれる。
甘い、あのお香の香りが
静かに広がっていた。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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