第14話:すれ違い
二軒目、街の西にある小さな礼拝堂。
白髪の老司祭は、私たちが差し出した臙脂色の革表紙を、まるで毒物でも扱うかのように老眼鏡越しに眺めた。
「……いや。少なくとも、うちのものではありませんな」
「見覚えも?」
「さぁ。どこかで見たことがあるような?装丁も古い。もっと由緒ある教会のものかもしれません」
得られた答えは、それだけだった。
先生は何も言わず、ただ地図の端に小さく線を引く。それが、どれほどの意味を持つのか、今の私にはまだわからない。
三軒目、孤児院を併設した教会。
中庭では、この街には似つかわしくないほど無邪気な子供たちの笑い声が響いている。
その明るさが、かえって私たちの抱える闇を際立たせる。
「臙脂色の聖書? いいえ、私たちはこの青いものしか使っていません」
若いシスターが見せてくれたのは、慈しむように使い込まれた藍色の聖書だった。
また、外れ。
教会を出ると、茜色の空はすでに群青へと沈みかけていた。
今日だけで二軒。
私たちは街の隅々を歩き回り、けれど成果は何一つない。
「先生……」
思わず弱音が漏れる。
靴底に響く石畳の感触が、無情なほどに硬い。
しかし先生は、歩みを止めない。彼の歩幅は乱れることなく、ひたひたと続く。
「こういうものは、一つずつ潰していくしかない」
それは、命令でも慰めでもない。ただの事実の提示だった。
「空振りは無駄じゃない。
違うと分かったことも、立派な成果だ」
淡々としたその口調に、先生という男の底知れなさを感じる。この男は、どれほどの時間をかけて「自分という人間を殺し」、目的という名の牙を研いできたのだろう。
私たちはまた、夜の街へと歩き出す。
手の中の聖書が、妙に重い。配布元ではない場所を訪れるたびに、正解から遠ざかっているのか、それとも着実に正解へ近づいているのか。
私にも先生にも分からなかった。
◆
翌朝、金曜日。
私たちは朝から、改めて振り出しに戻る覚悟で歩いていた。
臙脂色の聖書を握りしめ、教会の影を探して。
先生の足が不意に止まる。
その視線の先には、一人の少年が座り込んでいた。
「先生?」
私の問いかけは、彼の意識には届いていないようだった。
先生は真っ直ぐに、少年のもとへと歩みを進める。
――カタン。
靴台の上に無造作にブーツを載せると、彼は低い声で言った。
「いくらだ?」
靴磨きの少年が、驚いたように顔を上げる。この街の大人たちは、テオのような子供を空気のように無視する。
なのに、この男は。
「あ、3スーです。あの、お客さんになってくれるの?」
「ああ。頼む」
先生の表情は、仮面のように無機質だった。
「いくつだ?」
少年は戸惑いながらも、
靴墨を手に取る。
その手つきには、
子供らしからぬ熟練と、
生活の重みが滲んでいた。
「え? 僕は、10歳だけど」
「親は?」
少年は手を動かしながら、不思議そうに先生を見上げた。
誰も自分自身のことなど尋ねない。
そんな日常の中で、この黒い外套の男は、ただ淡々と問いを重ねる。
「……父ちゃんは一年前に流行り病で。母ちゃんは肺を悪くしてて、起き上がれないんだ……」
「そうか……名前、聞いてもいいか」
少年の警戒心が、先生の「あまりにも穏やかな」声に少しだけ解きほぐされていくのがわかった。
「……テオ」
「テオ。随分と手際がいいな」
ノワールの言葉に、少年は初めて、子供らしい照れくさそうな笑みを浮かべた。
毎日、泥を拭い、黒ずんだ指先で靴を磨き続ける。そんな当たり前の重労働の末に手に入れた、唯一の誇りなのだろう。
「毎日やってるので」
先生はそれだけ聞くと、そっと一枚の紙幣を差し出した。
それは少年の労働に見合う金額を、優に超えていた。
「え! これ、多い……」
「いいから、取っておけ。お釣りは君へのチップだ。君のおかげで、靴が綺麗になった」
少年の顔が、喜びでぱっと華やいだ。
その純粋な輝きを見ていると、私の心まで温められるような気がした。
昨日までの空振りが嘘のように、
乾いた砂地に水が染み込むような安らぎにも似ていたのだった。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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