第13話:聖書
セラファン様の言葉と、その手のひらから伝わる体温は、僕の凍てついた心を魔法のように解きほぐしていく。
こんなにも優しい人が、この世にいるなんて。
「そういえば、お腹、空いていませんか? 今、温かいスープとパンをお持ちしましょう」
彼は僕が一番欲していたものを、まるで最初から知っていたかのように差し出した。
湯気の立つスープと、
焼きたてのパン。
僕は我を忘れ、夢中で手を伸ばして頬張った。
そんな僕の様子を、セラファン様は慈しむように、愛おしむように目を細めて見つめている。
「君の名前は何というのですか」
問いかけに答えようとした途端、喉にパンが詰まった。
「ゴホッ、ゴホッ……!」
「……ッ。ぼくは……テオ。テオと言います」
むせ返り、涙目で名前を告げる僕に、
彼は一切の不快感も見せず、
穏やかに微笑みかけた。
「ああ、大丈夫ですよ。ゆっくりお召し上がりください、テオくん。いい名前ですね」
彼はさらに紅茶まで勧めてくれた。
温かな琥珀色の液体が喉を通るたび、張り詰めていた糸が次々と切れていく。
「はい。温まりますよ。
寒い中、よく頑張りましたね。
あなたは大変立派ですよ」
その言葉が、胸に突き刺さる。
立派? 僕が?
盗みを働き、嘘をつき、家族を騙している僕が、立派なはずなんてないのに。
「……セラファン様。僕は……全然立派なんかじゃ……」
否定しようとした言葉の途中で、セラファン様の瞳が一瞬、大きく見開かれた。
けれどそれは、困惑の色ではなかった。
まるで「ようやくその時が来た」と確信したような、静かな喜びの輝き。
彼はすぐに、さっきまでの優しい笑顔に戻り、僕の肩にそっと手を置いた。
「テオくん……。何か、お父さんやお母さんにも言いにくい、けれど誰かに打ち明けたいようなことがあるのではありませんか?」
セラファン様は、微睡むように微笑む。
「土曜日の夕方四時に、私は『お話を聞く時間』を設けているんです」
「お話……?」
セラファン様は、一冊の聖書を、僕の手の中に滑り込ませた。
「この本と一緒に、またその時間、私を訪ねて来てください。そこでは何を話しても、誰にも知られることは決してありません」
天使のような微笑み。
その裏側で、僕の逃げ場が完全に塞がれたことなど、当時の僕は知る由もなかった
◆
―――水曜日の午後。
カリーヌさんに追い出された直後、先生は何食わぬ顔でローズさんの家から例の聖書を懐に忍ばせていた。
「えっ! 先生いつの間に! それってローズさんのおうちの……」
「今は持ち主不在のものだ。多少構わないさ」
何が「構わない」のか。
倫理観が壊れているのか、それともこの男には、そんな些細な罪悪感などとうに焼き尽くされているのか。
私には理解できなかったが、彼が何かを掴もうとしていることは分かった。
この聖書が何なのか、何に繋がるのか。
確信はない。
けれど、このまま何もせずに立ち尽くすよりは、一歩でも前へ進むしかなかった。
臙脂色の革に、中央に刻まれた大きな十字。
独特の装丁だ。
「奥様も持っていたんですよね、先生の」
思わず口にした言葉に、先生が眉を微かに潜める。
痛いところを突いてしまっただろうか。
「……あぁ。彼女は割とまめに礼拝に行っていたようだったよ。
……自分は、形だけの信徒で、手続きなんかは全て妻に任せきりだったもんで、どこのものかなんて分からない。
済まないな、役立たずで」
自嘲気味に呟く彼の横顔を見て、私は慌てて打ち消した。
「す、すみません。
先生のこと責めたかったわけではなくて……。家族でも知らないことってあるんだなって。ローズさんのことを見ていても思ってしまって……」
先生はふっと、横を向いてその話題には露ほどの関心も、既に持っていないかのようだった。
夕暮れが迫り、影が長く伸びていく。
私たちは近くの教会から順に、
住人に聞き込みを始めた。
「すみません、この聖書なんですけど……どこで配ってるとか知ってますか?」
中から出てきた男性は、私たちの顔を見るなり、ひどく面倒くさそうな顔をした。
「知らないよ。少なくとも、すぐそこの教会のもんじゃない。ほら、色が違うだろ」
男性が取り出したのは、深みを帯びたくすんだ緑色の、小ぶりな聖書だった。
ハズレだ。
肩を落とす私を尻目に、先生は何も言わずに次の角を曲がった。
愚直に、一つずつ。
点と点を繋ぎ合わせるための地道な作業。
その背中を追いかけながら、私は手の中の赤茶色の聖書を強く握りしめた。
街は夕闇に溶け始め、教会の鐘が遠くで鳴っている。
もうすぐ夜の帷がおり始め、『狼』の活動時間が始まると言わんばかりに。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
もし少しでも気に入っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】やブックマークで応援していただけると執筆の励みになります!




