第12話:噓
「まあ、立派な食パンを買えたのね。テオ、ありがとう」
母マルグリットの安堵した声が、薄暗い部屋に響く。
テーブルの上のパンは、少しばかり硬く、けれど家族にとっては天の恵みのような糧だった。
「エヘヘ、凄いでしょ! 今日だって靴磨きしてる時に『何て上手に磨けるんだ』って褒められたんだ」
テオは無邪気に笑ってみせた。
その胸の奥には、高級な靴を履いた男からの罵倒と、投げ捨てられた硬貨の冷たさが突き刺さったままだというのに。
嘘だ。
全部、嘘。
本当は、パン屋の店先から盗んできた、泥棒の分け前なのに。
けれど、そんな真実を誰が望むだろう。
今、母もピエールもクロエも、幸福そうな顔でパンを頬張っている。この小さな笑顔を守るためなら、自分の魂がいくら黒く染まろうと構わない。
テオは自分の空腹を抱きしめ、何度も心の中で「これで良かったんだ」と繰り返した。
「テオ、あなたももう少し食べたら? これはあなたの買ったパンなのよ」
母の優しい問いかけに、テオは首を横に振った。
「いいんだ、僕は。そう……靴磨きしてた時に、優しい人が『これでも食べて』ってチーズとパンを分けてくれたからさ。お腹、そんなに空いてないんだよ。皆でしっかり食べてよ」
また、一つ。
嘘が積み重なる。
テオの瞳の奥で、何かが静かに死んでいく。
灰色の冬の空から降る灰のように、テオのついた嘘が、彼の心を覆い尽くしていく。
罪悪感という名の灰は、一度降り積もるともう消えはしない。
いつか、その嘘が破綻して取り返しがつかなくなる日が来るまで。
彼はパンの味を覚えていない。
ただ、その夜初めて、
家族を守るための嘘は、こんなにも甘くて苦いのだと知った。
◆
その次の木曜日。
大聖堂の巨大な石造りの門前で、テオは静かに靴磨きの道具を広げていた。
昨日、弟たちにパンを分け与えるために、自分はほとんど何も口にしなかった。
その代償は大きかった。朝からふらつき、手先は鉛のように重い。
通り過ぎる人々の足元はぼやけ、客を呼ぶ声さえ喉の奥で詰まってしまう。
なぜ、僕だけ。
一生懸命生きている。
ただ、それだけなのに。
ふと顔を上げれば、街は残酷なほどに華やかだった。
きらびやかな衣装を纏った大人たちが、溜息が出るほど優雅に歩いている。
両親に手を引かれ、屈託のない笑みを浮かべる自分と同じくらいの子供たち。
その滑らかな頬には、僕の顔にあるような泥も、靴墨の汚れも、生活の苦労も、何一つ張り付いていない。
世界は。
きっと最初から、
こういうふうにできているんだ。
空腹が腹の底を突き刺し、惨めさが冷たい泥水のように心に流れ込んでくる。
視界が急激に歪み、大聖堂の尖塔が空を裂いて傾いていく。
こんな、ところで。
終わりなの?
僕が守らなければ、誰が家族を守れるんだ。
母ちゃん。ピエール。クロエ。
ごめん。
本当に、ごめんよ。
少年の意識は、冷たい石畳の感触と共に、深い暗闇の中へと沈んでいった。
そのすぐ傍で
焚かれた香の甘い香りだけが、不思議なくらい鮮明だった。
―――――――――――――――――――――――
意識が浮上する。
そこは、カビの匂いが染み付いたわが家ではなかった。
高い天井。白く清潔な壁。そして、身体を優しく包み込む柔らかな寝具。
「ここは……?」
掠れた声が、静かな室内に溶けていく。
恐る恐る視線を横へ移すと、そこに一人の男が座っていた。
光の加減だろうか。
その人の背後には窓があり、逆光が彼の輪郭を淡い黄金色に縁取っている。
整った容姿。
慈悲深い瞳。
その姿は、教会のステンドグラスに描かれた聖人そのものだった。
あまりの美しさに、僕は夢を見ているのではないかと思った。
「天使様?」
思わず、そう零した。
すると、その人は困ったように、けれどこの上なく優しく微笑んだ。
「いいえ、私はセラファン。ここの主任司祭をしている者です」
セラファン。
その名前を耳にした瞬間、不思議と身体の緊張が解けていくような気がした。
彼は聖職者だ。
神の言葉を伝え、この街の迷える子羊を導く人。
テオは、自分が「パンを盗んだ泥棒」であることを思い出し、急に怖くなった。
でも、この人は僕を叱りつけるような顔をしていない。
まるで、最初からすべてを知っていて、それでもなお許そうとしてくれているような……そんな温かな眼差し。
「お腹が空いていたのでしょう。
死にそうな顔をして、大聖堂の前に倒れていましたから」
彼は、僕の額にそっと手を置いた。
その手は、凍えるほど冷たい僕の額を、溶かしてしまうほど優しく温めた。
「……もう、大丈夫ですよ。あなたはもう、独りで苦しまなくていい」
テオはその言葉に、涙を堪えきれなくなった。
母にさえ言えなかった孤独、弟たちを養わなければならないという重圧、パンを盗んだ時の恐怖。
すべてを見透かされたような安心感が、少年の心を静かに、そして確実に浸食していく。
それが、奈落への入り口であるとも知らずに。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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