第11話:矜持
――世界はどうして、こんなにも『いじわる』なんだろう。
薄れゆく意識の中で、テオはそう考えていた。
裕福な者たちは、毎日温かい食事を腹いっぱい食べ、宝石を纏い、困ることなど何もないような顔をして歩いている。
なのに、なぜ僕たちは。
――母ちゃん、ピエール、クロエ。
ごめん。ごめんよ。
僕は、もう……。
視界の端が、真白に塗り潰されそうになる。
その時、不意に甘い匂いが鼻をかすめた。
どこか遠い記憶のような、優しい匂い。
◆
それは、ある水曜日の朝のことだった。
「行ってくるよ。夕方には戻るから」
「テオ、ごめんね。ごめん……あなたばかりに苦労を押しつけて……」
家の中には、常に湿ったカビの匂いが漂っている。
父親は病でとうに亡くし、
母マルグリットもまた、病の床から起き上がることができない。
弟たちは5歳にも満たない。
そんな家を、
わずか10歳のテオ少年が、駅前や教会前での靴磨きだけで支えていた。
「兄ちゃん……お腹すいたよぉ」
弟のピエールが泣きべそをかく。
まだ幼い妹のクロエも、不安そうな顔で兄を見上げている。
「ピエール、我慢なさい! お兄ちゃんは、家族のために……!」
母マルグリットの目から、大粒の涙が零れ落ちる。
自分が動ければ、長男にこんな惨めな思いをさせなくて済むのに。
そんな情けなさと悔しさが、彼女の言葉を詰まらせる。
テオは、母に向かって精一杯の笑顔を作った。
「母ちゃん、いいんだよ。わかってる。
ピエール、クロエ、お腹空いてるよな……。大丈夫、兄ちゃん今日はいっぱい稼いでくる。お腹いっぱい、焼きたてのパンを食べられるようにしてやるから!」
「……テオ。」
母は、少年の温かすぎる言葉に、ただ名前を呼ぶことしかできない。テオは弟の肩を叩き、大人びた口調で告げた。
「ピエール、兄ちゃんがいない間、母ちゃんとクロエをお前が守るんだよ。いいな?」
「うん、分かったよ兄ちゃん! 行ってらっしゃい!」
カビの匂いに包まれた家を出て、テオは靴磨き道具を抱え、駅へと向かった。
彼の小さな背中には、この街の過酷な現実と、それでも折れることのない家族への愛が重くのしかかっていた。
今日の稼ぎは、靴磨き一人分だけだった。
しかも、高級そうな靴を履いた男に、つまらぬ言いがかりをつけられた。
「おい、下手くそだなぁ、ガキが。靴墨で俺の高い靴に傷が入っただろうがッ!」
威圧的な声と、突き飛ばされる衝撃。
結局、手元に残ったのは、パンひとつをやっと買えるだけの硬貨だけだった。
男は「お釣りはチップだ」と吐き捨てて去っていったが、それは彼にとってのチップではなく、テオの尊厳を削り取る屈辱の代償に過ぎなかった。
惨めさが、肌にまとわりつく。
冷たい風が、靴磨きで黒ずんだ指先を掠める。
けれど、どうしようもなく腹が減る。
家に帰れば、腹を空かせた弟たちが、兄の帰りを信じて待っている。
母の枯れた頬と、弟たちの細い腕を思い出す。
やりたくはなかった。
こんなこと、自分は絶対にしないはずだった。
――生きるためだ。
テオは自分自身に何度も言い聞かせた。そうしなければ、この街で僕たちは、音もなく消えてしまうだけだ。
◆
駅前のパン屋の店先。
店主である夫婦が、怪訝そうに顔を見合わせていた。
「あれ? ここに置いといた配達用のパンがないんだけど? アンタ何か知らない?」
「は? お前がとぼけてどこかにやっちまったんじゃないのか」
「おっかしいわねぇ。さっきまで絶対にあったのに。ちょっとだけ目を離した隙に、まるで消えるみたいに……」
――ハァハァ、ハァハァッ。
テオは走った。心臓が早鐘を打ち、視界が泥のように揺れる。
シャツの懐に押し込んだパンが、硬く胸を圧迫していた。
なぜ、こんなに怖いんだろう。
バレるのが怖いんじゃない。
僕が「盗み」なんていう汚いことをしてしまったと、母ちゃんに知られるのが怖いんだ。
けれど。
こうしなければ、明日の朝まで弟たちはどうなる。
僕以外に、この家で誰が家族を守れる?
カビの匂いが漂う家が見えてくる。
そこには、自分の帰りを信じている家族がいる。
テオは涙を拭い、泥だらけの顔に無理やり笑顔を貼り付けた。
そのパンは、盗んだものではなく、
誇り高き長男として持ち帰った糧であるかのように。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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