第10話:法則
ローズさんの顔色が、氷のように青白く変色していく。
彼女は誰に聞かせるでもなく、震える唇で言葉を紡ぎ始めた。
「……そんなはず……ないけれど……まさか。いいえ、そんな悍ましいこと……あるはずは……ないわ」
「ローズさん?」
「どうしたんだい、ローズちゃん」
私と先生が思わず身を乗り出す。
けれど、
彼女の瞳はもう、この部屋にはいない。
あの忌まわしい最後の日、あるいはもっと前――夫に疑念を抱き始めたあの日々に囚われている。
「最近、あの人、鼻が膨らむの。
子供の頃からずっとそう。嘘をつく時の癖……。ここのところ、妙にその癖が出るようになって」
ローズさんは自分の言葉に、自己嫌悪するように顔をしかめた。
「……まさか、ね。妹のルーシーと
……ううん、違う。あの人に限って。私が変なことを考えているだけ」
彼女の指先が、まるで口から出た穢れた言葉を拭うように、エプロンの裾を必死に擦り続けている。何度も、何度も。その動作があまりに機械的で、見ていられなかった。
カリーヌさんが、何か底知れない影を察知したように、鋭く声を上げた。
「ローズちゃん、もういい。もういいんだよ!」
カリーヌさんは、私と先生を射抜くような目で睨みつけた。
「……なぁ、アンタたちもう、いいだろう。もう、帰っておくれよ。この子はもう、充分すぎるほど頑張ったんだよ」
彼女の言葉には、拒絶だけではない、切実な「これ以上は踏み込ませない」という意志があった。
この街の住人は、皆こうして、真実にたどり着く直前で蓋を閉じてしまうのだろうか。
先生は、静かに一礼した。
私はただ、促されるままに頭を下げた。
外に出ると、鉛色の空から湿った風が吹き下ろしていた。あの質素な家の扉が、私たちの背後で重々しく閉ざされる。
◆
家を出た頃には、既に日は傾き始めていた。
橙色に染まった通りは、まるで誰かが零した血の跡が乾いていくような、痛々しい色をしていた。私たちは黙って歩く。
先ほどのローズさんの、震える指先の記憶が脳裏にこびりついて離れない。
「先生、あの聖書なんだけど」
私は溜まりかねて、懐に隠していた記憶を言葉にした。
「おばあちゃんの暖炉の前で見たものと一緒なの。装丁も、色褪せ方も」
先生は前を向いたまま、しばらく何も言わなかった。夕暮れの風が、彼の黒い外套の裾を寂しげに揺らしている。
「……奇遇だな」
ようやく開いた口から出たのは、感情の読めない、平坦な声だった。
「ヴァイオレットが亡くなる前にも、よく読んでいたものと一緒だ」
私は思わず足を止めた。
三つ。おばあちゃんの家。先生の家。そしてローズさんの家。
三つの惨劇の現場に、同じ聖書が存在していた。
「偶然、なのかしら」
自分の声が、縋るように震えているのが分かった。
偶然であってほしい。ただの気のせいで、悲しみのあまり記憶が似通ってしまっただけだと思いたい。けれど、先生の瞳はそんな甘い希望を切り捨てるように冷徹だった。
「偶然、四回続けば、それはもう法則だ」
先生の声は揺るがない。
「四回……?」
「『狼』のはじまりの事件を知っているか? メアリの事件だ。記録には残っていなかったが、自警団の報告書に、"聖典らしき遺留品"の記述があった」
先生の言葉に、背筋が凍りつく。
ずっと、薄暗い霧の中を歩いている気分だった。それが、急に視界が開けたような、あるいは底なしの沼へ真っ逆さまに突き落とされたような感覚。
「お前の祖母。
ヴァイオレットとイリス。
ローズの家。
そして――最初の事件、メアリ。」
先生が一呼吸置く。
「見落としていたわけじゃない。ただ、繋げて考えていなかっただけだ」
先生は足を止め、私を振り返った。
その瞳の奥に、これまで見たことのない色が揺れている。
怒りでも、悲しみでもない。
もっと静かで、もっと確信に近い――「復讐」という炎を焚きつけるための、冷たい確信。
「同じ聖書を持つ人間が、四人。全員、狼に食われた」
「それが原因なのか、結果なのかはまだ分からない。
だが、調べる価値はある。」
「じゃあ、その聖書はどこで……」
「配布元を辿ればいい」
先生は短く言い切ると、再び歩き出した。
「聖書なんてものは、大抵どこかの教会で配られる。街の教会を虱潰しに当たるしかないだろうな」
夕陽が先生の背中を、毒々しいほどに赤く染めていた。
その背中を見つめていると、私は嫌な記憶の残響に襲われる。
頭が割れるように痛んだあの瞬間――。
おばあちゃんが殺された夜、私の記憶の中に紛れ込んでいた「聖書の匂い」。
私が忘れているものの中に、まだ決定的な何かがある。
その予感が、胸の奥で黒い渦のように広がっていた。
聖書を配った教会。
その先に、何かがある。
私たちは、自分たちの首を絞めるための鎖を、自ら手繰り寄せようとしているのだった。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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