第9話:連鎖
ローズさんの頬に、血の気が戻る。
怒り。
それは彼女が長い沈黙の中で失っていた、最も人間らしい感情だった。
「あの人のこと……! 侮辱するような真似は許しません。
あの人はっ! とても、とても優しい人だったの!!」
震える声で叫ぶ彼女の瞳には、夫への愛と、私たちへの敵意が混ざり合っている。
先生は、そんな彼女を真っ向から受け止めた。
先ほどの凍りつくような冷徹さは消え、わずかに目を細める。
「……いい表情だ」
その呟きは、獲物を褒める獣のようでもあり、あるいは救い主のようでもあった。
ローズさんは戸惑い、憤りの中に困惑を滲ませる。
先生はそのまま、ゆっくりと膝をついた。
固い床に膝が当たる音が、静まり返った部屋に響く。
「先ほどは済まなかった」
頭を下げる。
この男が、誰かに膝を折るところを初めて見た。
先生は、深く俯いていた。
その表情は、影に隠れて、私には見えなかった。
「……彼がどうやってアンタと生活していたか、どんなことでもいいから教えてほしい。自分たちは、何か少しでも『狼』のヒントがほしいんだ……」
先生の声は、祈るように低く、そして切実だった。
「アンタにしか語れない彼のことを、どうか教えてほしい。この通りだ」
静寂が支配する。
ローズさんの荒い呼吸音だけが、耳に刺さる。
カリーヌさんも、息を呑んで成り行きを見守っている。
その瞬間、私はようやく気づいた。
先生は怒らせたかったんじゃない。
悲しみの底で止まっていた時間を、動かしたかったのだ。
ローズさんは、
震える手で何度も胸元を握りしめ、
やがて絞り出すように口を開こうとしていた。
静寂の中で、カリーヌさんが用意してくれた紅茶の香りが、部屋を支配していた湿った埃の匂いをわずかに和らげていた。
ローズさんの指先は、カップの温もりにすがりつくように震えている。
私は先生の背中越しに、彼女を見つめていた。
さっきまでの虚ろな瞳とは違う、何か遠い記憶を必死に手繰り寄せようとする眼差し。ローズさんは、かすれた声で物語るように話し始めた。
「私たち、貧しくて、子供もいなかったけど幸せだった。二人で支え合ってこれからも生きていく。そう信じていたわ」
彼女の言葉には、失われた日常への愛惜が滲んでいる。
「あの人は、毎日工場へ真面目に出かけていた。私が『気をつけて行ってらっしゃい』と送り出すのがお決まりでね。
土曜日だけは、午前に仕事を終えて、夕方から街の飲み屋へ出ていくのが唯一の楽しみだったの。
……けれど、あの最後の土曜日は、いつもよりも少し早い時間に『ちょっと出てくる』そう言って部屋を後にしたわ」
ローズさんの指が、カップの縁を滑る。
まるで何か思考の片隅で何かがつっかえているかのようにも見えた。
「………そう言えば。
あの土曜日は……出かける直前、あの人は壁にかけてあった聖書を一度、手に取ってね……。でも、すぐに元の場所へ戻したの。
……まるで、それを持つことが『ふさわしくない』と言いたげな顔をして」
先生の眉が、微かにピクリと動いた。
私も心臓が跳ねるのを感じる。
「……聖書を?」
彼がそれを「自分にはふさわしくない」と感じたのは、なぜなのか。
それから。
ローズさんは棚へ歩き、迷うように指先を伸ばした。
革張りの一冊を抱えて戻ってくる。
「ええ。これがその聖書よ」
その瞬間──
軋むような酷い頭痛が襲う。
ぐらりと一瞬周りが揺らぐような。
―――その聖書は。
それは、おばあちゃんの食卓にも置かれていたものと、寸分違わぬ装丁だった。
なぜ。これがこの家にもあるのか。
私が思考停止していたままでいると、先生が呟くように切り出した。
「……何か、言っていたか?」
先生の問いかけに、ローズさんは一度ゆっくりと首を横に振った。
だが、次の瞬間、彼女の顔から生気が消え、表情が強張っていた。
私たちは全員、
その場で静かに息を呑んだ。
続く彼女の言葉をひとつも聞き漏らさないように。
お読みいただきありがとうございます!明日も20時10分に次話を更新します。
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