10 婚約破棄への返答
「シアナ、ぼくとの婚約を破棄してくれませんか?」
テファを侍女にして、数日後だ。
ファリードから、婚約破棄の申し出があったのは。
正式な呼び出しだなんて仰々しいことがあった時点で色々と探っておくべきだった。
初めて出会ったとき、私はその小さな少年にある約束をした。その時は、その約束が彼も私も救ってくれるだろうと信じていたから。最善策だと思ったから。
最近はその約束は忘れていた。もう、二人には必要の無いものだったから。
あの子もきっと忘れているだろうと思った。
でも、君は覚えていたんだね。あの約束をきっちり破棄しなかったことを後悔する。とんでもない、しくじりだ。
黄金色の瞳は全く逸らされない。出会った頃とは大違いだ。でも、怯えていた子供が成長した姿に、喜べるほどその背景が望ましくない。
そんな言葉を口にする為に、覚悟を持って欲しくはなかった。
「それがきっとお互いの為なんだ!」
しばらく、沈黙したのちに、そう彼が満面の笑顔で嘘を吐く。
嘘吐き。
初めて彼にそんなことを思った。
いつも我慢強くて、色々笑顔の裏で隠す子ではあったけど、そう思ったことは無かった。それは、彼なりの戦い方だから。だから、私は彼が少しでも楽に戦えるようにしようと考えていた。
でも……今の君は私を守るために、私をその笑顔で突き放す気でいる。
分かるんだよ、そんなこと。馬鹿じゃないんだ。
今までずっと特に婚約について文句を一切言わなかった君が、
私が帰国中に送った手紙を鍵付きの箱に閉まっている君が、
毎年色々考えて誕生日の贈り物をする君が、
こっちに私が居る間は暇さえあれば隣にいる君が、
今回の事件で自分の時以上に弱弱しい顔を見せた君が、
――私のことを嫌っているなんてあり得ないから。
傲慢かもしれないけど、
私はね、ファリード、
君に愛されている自信はあるんだよ。
「君は私のことを舐めているのか!」そう怒鳴りそうになった。
けど、彼の笑って閉じた目の端から流星のように涙が落ちるのを見て、すんでのとこでそれを飲み込む。
私が怒鳴ったところで状況は悪化するだけだ。
ファリも気丈に振る舞っているが、今回の件は相当参っているのを父からも少し話を聞いている。彼の穏やかな様子で見失いがちだが、彼だって今は平静じゃない。
そのまま感情的なまま互いにぶつかれば、お互いの意図や思いを読み違える。
私の父と母はとんでもない衝突を繰り広げてもなんだかんだやっていってはいるが、あの二人は、根が戦闘狂みたいな人達だ。繊細で争いが苦手なファリと対極な位置にある。
生物は生きる為に自身の経験則や知識を利用する。対象を比較したり、同一視したりして、予測して行動するのもそれだ。
でも、今は安易に重ねるな。話を聞かないと、何も分からないだろう。
自身で人の感情を補完するのは危うい。自分で予測できるものだけで判断してはいけない。
人のことを分かる日なんて、来ない。だってみんな生まれ育ちも考え方も違うから。
自分の見識や思い込みに重ねて分かると思った瞬間、そこが穴になって大きい誤解をしてしまう。だからこそ、分からないけれど分かりたいと思う心は持ち続けるべきなのだ。
「本当にそう思ってるの」
「お、思ってるよ」
私がそう静かに問いかければ、固い声でそう答えるが、尻尾の先が落ち着かない。
「そう……じゃあ互いの為って例えば?」
感情を載せると今はとんでもない響きになりそうだから、出来るだけ平坦に声を出す。
それでもファリは私の感情の波を読み取ったのか、耳をぺしょっとする。
でも、すぐに耳をピンと立てて勇ましい顔をする。
「シアナは色んな国旅してさ、色んな世界見られるよ!
前にシアナは言ってたでしょ、月に珍しい現象が起こっても観測できる場所と出来ない場所もあるんでしょ! 自由に旅してさ! 色んな凄いもの見られるよっ!」
月は好きだよ。元から好きだったけど、今はもっと好きだよ。
君を思い出すから。君に似ているから。
綺麗で、神秘的で、優しく柔らかく世界を照らす存在だから。
別の人が知らないであろう君を、尾有りの王子として周囲に注目を浴びる君が、人に気づかれず持っている強さを、生き様を知れることは嬉しいんだよ。
望遠鏡という道具で月を捉えたあの感情と、婚約者という立ち位置で君に関わることで得られる感情は、別物ではあるが、自分の感覚をがらがらと崩す美しい衝撃は似ているんだよ。
君がいない場所で、君が遠くの空の下で苦しんでいるかもしれないと思って、月を眺める。
それはきっと空虚だろう。
「シアナの故郷にはお友達も沢山いるんでしょう? シアナが向こうの国に将来もいられるって聞いたらみんなきっと喜ぶんじゃないかな! 手紙で読んでるから知ってるよ!」
無理してハキハキと、笑顔でそう話すファリの手は胸のあたりで握られているけど、震えていた。
手を覆う鱗は、出会った頃とは違って、真っ白だったけど、初めて出会った時より彼は辛そうに見えた。
「研究者気質の子だとか、格好いい未来の王妃様とか、行商人の気のいいおじさんとか、滅茶苦茶強いけどそうは見えない親戚のお兄さんとか、引っ込み事案だけど実はいたずらっ子な親戚な女の子とか、
たくさんたくさん読んだから知ってるよ! シアナはみんな大好きで、みんなシアナが大好きだって」
祖国に居る友人たちや知り合いのことは君の言う通り大好きだよ。
でも、君のことはそれと同じくらい、いやそれ以上に好きだってのに、なんで君は私を突き放そうとするのかな。君が私を嫌いになっているのなら、まだ納得がいく。
でも、君は私のことを大好きじゃないか。互いの為ってどういうことかって聞いたのに、私の利点ばかりすらすら並べてさ。君自身の為になることは一つも言ってないじゃないか。
どうして、いつだって、君はそんなに自分をないがしろにするんだっ。
恨めしくも思ったその時、
「もう、怖くて辛い思いをして、ぼくのお守りをしなくていいよ!」
『お守り』
「もう、ぼくのこと心配しなくていいよ。もう怖くないから」
『心配』
「シアナは優しいから、ずっと年下のぼくが心配で我慢してくれてたんだよね」
『年下』『我慢』
空元気で放たれた彼の言葉で、はっとする。
ああ、そっか………………私は君に愛されている自信はあった。
婚約者というのを抜きにして、心から無邪気に愛されている自信がある。
それだけ、ファリードという少年は分かりやすくて、直球な子だから。
「でも、もうぼくは独りでも生きていけるよっ! ここで頑張って立派な王になるからさ! たまに噂で聞いて誇らしげに思ってもらえたら嬉しいな!
ぼくはそれだけでもう充分幸せだから!」
でも……………君にはその自信が無かったんだね。
私が同情や義務だけで君の婚約者でいると思っていたのなら、君は不安だったよね。
愛されているとしても、相手にとって唯一としてじゃなくて、多数の内一つだって認識なら、自分を捨てて、他の全てをとって欲しいと願うのが君だったね。
そういう認識になる材料も揃っている。
まず、初期の私はファリの認識となんら相違なかった。同情と義務感で彼と出会った。
婚約者としての初対面も私と母の反抗で随分遅れている。おまけに初対面で婚約破棄をいつでもしていいと言っている。
この国の王から、二人の婚約関係について評された時に、王への嫌悪で反射的に嫌な顔をする。
こんな材料揃っていたら、この婚約が本当は嫌なんだろうと勘違いしてもおかしくない。
おまけに、その後、その認識を大きく覆すことも出来ていない。
この国に私が居るときは、大抵は会いに来るのもいつも君側で、私はそれ淡々と答えるだけだった。
彼が何か悲しいことがあった時、苦しい時があっても、励ましの言葉等はあまり言わず、傍に居たり、話を逸らすことばかりで、彼を取り巻く問題について特に言及しなかった。憂いていただけだった。
私が13歳になった以降も、大して自分の心境の変化を語らなかった。時々、思いを語っても抽象的で意味不明なものが多く、困惑している君に補足説明もしていない。
つまりは……伝わってない。
父の言動を批判的に評価しておきながらも、自分は父みたいに人の心がない程ではないが、自己完結型で結構置いてけぼりにしがちだった。致命的だな。こちらに落ち度がある。
勝手に自分だけで完結して、満足して、目の前の少年に向き合うことを忘れた。
彼の方は何時だって、私に思いをぶつけてくれたのに、向き合ってくれたのに。
そうしてくれたから、私という個人をしっかり見て関わってくれたから、好きになったのに。
私が一言を発さないのを見て、次はなんて言えば説得できるだろうと、斜め上を見て考えているファリードに私は近づく。
そして、初めて出会ったあの日を再現するように仰々しく前に跪く。
「あらためまして、ファリード様。突然ですが、お話を聞いて頂いてもよろしいでしょうか?」
ファリードの灰色の瞳が困惑に染まる。
だけど、頷く。
「私は、ずっと自分の望むものが、したいことが分からなかった。
分からなかったから、父に言いくるめられてこの国に来た。
君が想像していたような同情と義務感でいたこともある」
やり直したい訳ではない。過去を消したい訳でも、忘れて欲しい訳でもない。
あの時もあっての私達だから。
その上で変わったことを伝えたい。過去にとらわれるのではなく、過去を原動力に突き進んでいきたい。
「だけど今は、ファリード殿下、私は君のことが大好きだからここにいる」
いつになく真剣に、私はそう言葉にする。
パチパチと満月のような瞳が瞬く。
「尾有り、尾無しで、恨みつらみ復讐心嫌悪感が蔓延るこの国で、君はいつも私自身のことを見てくれた」
正直この国で私の肩身は狭い。
でもファリ、君が真っすぐ見てくれるのなら、私はそれで構わない。君が、私を拒絶しない限り私はこの国に居られる。
この国に初めて来て帰った時に、心配した母に様子を伺われても、母国で婚約破棄に関して何も言及しなかったのは君がいたからだ。
「尾有りでもないし、令嬢らしさもない、変わり者の私の好みを真っすぐに分析して、毎年誕生日プレゼントを必死に考えてくれた」
好みでなくてもファリのくれたものなら、なんでも良いと思うけれど、彼は毎回私の想定した以上の素敵なものをくれる。
それだけの結果になるのに、どれだけ彼は私を想ってくれただろう。
「どれだけ己が傷ついても、どれだけ周囲がいがみ合っても、
人と人とが手を取り合えることを願える君を、私は強いと思った」
満月のように平等に汚れなく人々を照らす子だと思った。
そんな君でも私が傷ついた時に怒ってくれたのだから、相当私は愛されているのだろう。
「誰よりも強くて優しくて綺麗な君が、誰よりも、何よりも、好きだ」
彼の双眸の満月から、涙が溢れる。
そんな彼の両手を、私も両手でしっかり握る。
愛してるよっていう言葉だけじゃなくて、この先のことも語りたいから。
「だから、君が他人の幸せの為に、自分の身を削るのなら、
私は私自身と君の幸せの為に、自分の身を削るよ。
私は私の意思で、君の隣で歩み続けたいと願うよ、戦い続ける覚悟を決めたよ。
それが私にとっての自由で、生きがいで、幸福なんだ」
本音で語った言葉は、私らしくはあったし、言いたいことは言えた。
でも、最初の彼の言葉に対して、完璧にはまだ返せていない気がしたし、彼とこれから人生を共にする王妃として、ある程度礼儀を尽くすべきだろう。
「ですので、婚約破棄の提案されたところ申し訳ありませんが、
しかるべき時に私と結婚していただけないでしょうか?」
だから私は、
彼の婚約破棄の申し出に対して、
昔に己がした約束に対して、
求婚で返したのだった。




