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第九話 サシル・ハー


 ナチャン・カンには娘がいた。

 名をサシル・ハーという。

 ハーは水だ。最初に覚えた言葉の一つだ。サシルは、朝の明るさ。

 朝の水。

 名前を聞いた時、いい名だと思った。それだけだ。それだけだったはずだ。

 この娘は、黙っている男に近づかない。

 俺は荷を運んでいた頃から、この町で一番黙っている男だった。喋れるようになってからも、用がなければ喋らない。戦の話は段取りの話だから喋る。それ以外は黙っている。

 だから、話したことはほとんどなかった。

 ナコムになってしばらく経った頃、祭りがあった。

 収穫の祭りで、三日続く。バルチェーという酒が出る。木の皮を水に漬けて、蜂蜜を入れて、発酵させたものだ。甘い。甘いくせに後から来る。

 俺は飲んだ。久しぶりに酒を飲んだ。スペインを出てから飲んでいなかったから、何年ぶりか分からない。数えていないので分からない。

 酔った。

 酔って、海を見に行った。祭りの音が後ろから聞こえる。太鼓と笛。あの音にはもう慣れた。

 浜に座っていたら、後ろに人が来た。

 サシル・ハーだった。

 何か言った。聞き取れなかった。酔っていたのか、波の音が大きかったのか、分からない。

 もう一度言った。

 「顔の線は、痛かったか」

 痛かった、と答えた。

 「泣いたか」

 泣いていない、と答えた。涙は出たが泣いてはいない。その区別がこの言葉で言えなかったので、泣いていないとだけ言った。

 娘は笑った。

 「嘘だ。みんな泣く」

 それだけ言って、戻っていった。

 俺は浜に座ったまま、海を見ていた。

 ——翌日から、少し気になるようになった。

 気になるというのは面倒なことで、視界の端にいると分かる。いなくなると分かる。声が聞こえると、何を言っているか聞こうとする。

 俺は水夫で、兵隊くずれで、荷を運ぶところから始めた男だ。主人の娘に気を遣われるような身分ではない。

 だが、ここでの俺はナコムだった。

 ナチャン・カンに話をしに行った。

 何と言ったかは、あまり覚えていない。覚えているのは、言葉が足りなかったということだ。

 戦の段取りなら言える。潮の話なら言える。だが、娘をくれという話をするための言葉を、俺は持っていなかった。

 ナチャン・カンは、長いこと俺を見ていた。

 それから、短く答えた。

 いいだろう。

 嘘みたいだ、と思った。嘘ではなかった。

 祝言は簡素だった。

 火を焚いて、何か唱える男がいて、手を繋いで、終わりだ。

 終わった後、サシル・ハーが俺の顔を見て言った。

 「あなたは祝言でも喋らないのか」

 何を言えばいい、と聞いた。

 「何でもいい。長いほうがいい」

 俺は少し考えて、海の話をした。パロスの港の話だ。朝、港を出る時に鳥が船についてくる。しばらくついてくる。昼になるといなくなる。陸が見えなくなる頃に、いなくなる。

 サシル・ハーは聞いていた。

 「鳥は何という名か」

 知らない。名前は知らない。ずっと見ていたのに、名前を聞いたことがない。

 「名前がないものを覚えているのか」

 覚えている、と言った。

 「変な男だ」

 そうかもしれない。

 一緒に暮らし始めて分かったことがある。

 この娘は、強い。

 俺より言葉の使い方が鋭い。当たり前だ、自分の言葉なのだから。だが、それだけではない。人を見る目が速い。誰が嘘をついていて、誰が怒っていて、誰が怖がっているか、すぐに分かる。

 俺が読めない顔を、この娘は読む。

 戦の段取りを考えている時に、横から口を出す。「あの男に先を任せるな。逃げる」と言う。なぜ分かるのか聞くと、「目を見た」とだけ答える。

 大抵、当たった。

 子ができた。

 サシル・ハーの腹が大きくなっていく月日を、俺は特別な気持ちで見ていた。

 特別な、としか言いようがない。嬉しいのとは少し違う。怖いのとも少し違う。腹の中に、俺の知らないものが育っている。俺の半分が入っているはずなのに、俺には何も分からない。

 ある夜、サシル・ハーが俺の手を取って、腹に当てた。

 動いた。

 中から、蹴った。

 硬い蹴りだった。力がある。

 「戦士だ」と俺は言った。

 「どうして分かる」

 「蹴りが強い」

 「女でも蹴りは強い」

 そうだった。この娘の蹴りは強い。

 生まれた。

 男だった。

 小さい。当たり前だが小さい。目を閉じて、拳を握って、声を上げている。

 産婆が体を拭いて、サシル・ハーに渡した。

 俺はその顔を見た。

 ——似ていない。

 俺に似ていない。サシル・ハーにも似ていない。

 肌の色が違う。俺より濃くて、母親より薄い。髪は黒い。目は、開けた時に、少し明るかった。

 どちらでもない顔だった。

 どちらの土地にも、この顔はない。パロスにもチェトゥマルにもいない。こういう顔を持って生まれた人間は、たぶんこの世にまだいない。

 俺は抱いた。軽い。片腕に乗る。

 この子は、何人なのだろうと思った。

 スペイン人か。この土地の人間か。

 どちらでもない。

 どちらでもないものを、何と呼ぶか。俺は知らない。この土地にもその言葉はない。まだ誰も作っていない言葉だ。

 だから俺は、名前だけを呼んだ。

 ナチャン・カンがつけてくれた名を呼んだ。何度か呼んだ。子は泣きやまなかった。

 泣きやまなかったが、それでよかった。

 アギラールが見に来た。

 子の顔を覗き込んで、黙って、それから十字を切った。

 祝いなのか、何なのか。俺には分からなかった。

 だが、あの男の指が少し震えていたのは、見えた。

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