第六話 言葉を盗む
二つ目に覚えた言葉は、ハーという。
水だ。
水を汲んで、水を運んで、水を置く。その間に何度もハーと言われるから、覚えた。
三つ目は、チェーだった。木。薪を割る時に言われる。
四つ目は、忘れた。
言葉というのは、こういう覚え方をする。一本道ではない。覚えて、忘れて、もう一度聞いて、ああこれかと思って、また忘れる。
ただ、殴られる回数は減っていく。
それだけで十分だった。
俺たちが何をしていたかというと、要するに働いていた。
朝、起こされる。水を汲む。薪を割る。石を運ぶ。畑を掘る。道の草を取る。荷を担いで隣の町まで歩く。帰ってくる。飯を食う。寝る。
雨の日も同じだ。雨はよく降る。しかも横から降る。
アギラールも同じことをやっている。
だがこいつは、あまり言葉を覚えない。
理由は分かっている。覚える気がないのだ。
アギラールは日を数えている。あの膨らんだ本に、毎日、爪で印をつけている。日曜を覚えていて、その日だけ何か長く唱える。
この男はまだ帰るつもりでいる。
帰る人間は、ここの言葉を覚えなくていい。覚えたら、帰れなくなる気がするのだろう。
俺は違った。
帰れるとは、思っていなかった。
最初からそうだ。ニクエサの船に乗った時から、帰りの船は考えなかった。
だから覚えた。
命令の語が、一番先に入ってくる。
クチ。ハー。チェー。タース。ペク。コー。
運べ。水。木。持ってこい。犬。行け。
命令というのは短い。一語で終わる。だからすぐに分かるようになる。
分かるようになると、殴られる前に動ける。殴られる前に動くと、殴らなくなる。殴らなくなると、別の言い方をしてくる。
ここからが少し面白かった。
殴る代わりに、指で差して、何か言う。これは何だ、あれは何だ、という意味だと気がついた。
差された物の名を、覚えていく。
石はトゥニチ。火はカアク。トウモロコシはイシーム。海はカアブ。魚はカイ。
名前を覚えると、物が増える。
変な言い方だが、本当にそうだ。昨日まで「あれ」だったものが、名前を持った途端に、目に入るようになる。ずっとそこにあったのに、名前がないから見えなかった。
海の上で方角を覚えた時と同じだ。
北を知らなかった頃、空はただの空だった。北という言葉を覚えた日から、空に線が引かれた。
言葉はそういうものだ。名前は、目だ。
半年くらい経った頃、一つ困ったことが起きた。
名前が足りない。
物の名前は覚えた。動きの言葉もいくつか入った。だが、それを繋ぐものが分からない。
向こうの連中が喋っているのは、分かる語と分からない語が交互に来る。波みたいなものだ。波の頭だけ見えて、間が見えない。
アギラールに聞いた。こいつは言葉を覚える気がないくせに、仕組みには興味がある。
「繋ぐ語だろう。ラテン語にもある。前に置くか後に置くかだ」
ラテン語は知らない。だが「前に置くか後に置くか」は分かった。
注意して聞いた。聞くというのは、目を使うのとは違う力がいる。一日中聞いていると、夜には頭の奥が痛くなった。
覚えた。
繋ぐ語を覚えた日から、聞こえるものが変わった。
波の頭だけが見えていたのが、波の形が全部見えるようになった。
あとは早い。
何が面白いかというと、向こうの人間が俺の前で内緒話をするのだ。こいつには分からないと思っている。
分かる。
全部ではない。だが、どの語に力が入っているかは聞こえる。
ある日、主人の前で別の男が俺のことを何か言った。
三つの語が聞き取れた。「あの白いの」「使えない」「要らない」。
要らない、の先に何があるか。俺はこの土地で一度見ている。
その日から、俺は畑を倍の速さで掘った。
一年と少し経った頃、主人が変わった。
アー・キン・クッツが、俺をナチャン・カンという男に渡した。贈り物なのか、売ったのか、俺には分からない。荷に値段は聞かされない。
ナチャン・カンはチェトゥマルという町の主だった。
前の町より大きい。
ここで俺がやらされたことは、前と同じだ。運ぶ。汲む。割る。掘る。
だが一つだけ違うことがあった。
チェトゥマルには、海がある。
俺はパロスの水夫だ。
海を見た日、少し泣いた。泣いたのは飯を食った時以来だから、一年ぶりくらいだ。
理由は分からない。帰りたかったのかもしれない。帰れないと分かったのかもしれない。
海が見える場所で働いていると、ナチャン・カンの部下が俺を見に来ることがあった。珍しいのだろう。白い肌の人間は、ここにはいない。
見に来た男の一人が、俺に何か言った。
聞き取れなかった。
もう一度言った。俺の目を見て、ゆっくり言った。
「ア バーッシュ カバ」
お前の名前は何だ。
名前を聞かれた。
荷を運び始めてから、初めてのことだった。
俺は答えた。「ゴンサロ」と。
相手は首を傾げた。もう一度言った。「コンサロ」。少し違う。
だが笑った。
俺も笑った。
——最後に覚えるのは、いつも人の名前だ。
アギラールは、まだ日を数えていた。




