第三十四話 ティトゥ・クシ
私はあの日、戸口にいた。
書くのは、これが初めてだ。正確に言えば、書いているのは私ではない。隣に座っているスペイン人の修道士マルコス・ガルシアが、私の声を聞いて、紙に記している。
私の声がケチュア語で出て、修道士がそれをスペイン語に変えて、紙に載せる。
変わっている、と思う。
父を殺したのはスペイン人だった。父の言葉を紙に載せているのもスペイン人だ。
殺す手と書く手が同じ国の手だということを、私はもう不思議には思わない。
あの日の話をする。
一五四四年。私は七つだった。たぶん七つだ。山の中で暮らしていると、年の数え方が曖昧になる。だが七つだったと思う。
父は庭にいた。
白い肌の客人たちと、鉄の輪を投げていた。
地面に棒が立っている。離れた場所から輪を投げて、棒に入れる。入ると声が上がる。外れても声が上がる。
父は笑っていた。
私が覚えている父の顔は、ほとんどが笑っていない顔だった。宮殿で家臣に命じている時の顔。戦の報せを聞いている時の顔。夜、一人で座って、壁を見ている時の顔。
笑っている顔は少なかった。
あの日の父は、笑っていた。
私は宮殿の中にいた。戸口から庭が見えた。父の背中が見えた。白い肌の男たちの横顔が見えた。
鉄の輪が飛ぶのが見えた。棒に当たった。入らなかった。外れて転がった。
父が何か言った。聞こえなかった。
白い肌の男の一人が、父の後ろに回った。
光った。
何が光ったのか、その時の私には分からなかった。
刃だった。
父の体が揺れた。
前に傾いた。膝をついた。
もう一人が横から刺した。もう一人が後ろから刺した。
父が倒れかけた。倒れなかった。片手を地面について、もう片方の手で腹を押さえていた。
赤いものが手の間から出ていた。
私は走った。
走った。戸口から飛び出した。庭に向かって走った。
誰かが私を抱きとめた。家臣だ。腕が私の体に巻きついて、止められた。
叫んだ。何と叫んだかは覚えていない。
父がこちらを見た。
地面に手をついたまま、こちらを見た。
あの目を、私は覚えている。
何かを渡そうとしている目だった。言葉にできないものを、目だけで渡そうとしていた。
渡されたのかどうかは、分からない。
私は七つだった。七つの子供に、渡せるものは限られている。
父は倒れた。
横になって、動かなくなった。
庭の土の上に、鉄の輪が一つ転がっていた。棒には入っていなかった。
——あの輪は、まだあるだろうか。
もうないだろう。錆びて、土に埋まっただろう。
だが私の中には残っている。
あの日から二十六年が経った。
私は今、父が建てた山の中の都にいる。ビルカバンバ。
この都は小さい。クスコとは比べものにならない。クスコを私は覚えていない。生まれてすぐにここに来たから。
私が知っているのは、この山と、この霧と、この雨だけだ。
父の後を継いだのは、兄だった。
サイリ・トゥパクという。
兄は山を降りた。
スペイン人と話をつけて、洗礼を受けて、クスコの近くに土地を貰って、降りた。
三年で死んだ。
毒だと、誰もが言った。証拠はない。だが三年で死ぬような病ではなかった。
降りれば死ぬ。
父は山の中で殺された。兄は山を降りて殺された。
どこにいても殺される。
私は山に残った。
ビルカバンバの王になった。
王、と言っても父の時代とは違う。兵は少ない。倉は減っている。チャスキが走る道も、草に覆われかけている。
だが王だ。
マスカパイチャを戴いている。赤い房飾りが額にある。
父が戴いて、兄が戴いて、私が戴いた。
同じ布だ。同じ赤だ。糸がほつれかけている。
私は、父とは違う方法で戦うことにした。
父は兵を集めた。二十万を集めて、クスコを囲んだ。届かなかった。
私は紙を使う。
一五六六年。アコバンバで条約を結んだ。
洗礼を受けた。スペイン人の名をもらった。ディエゴ・デ・カストロ。
何番目の名前かは、もう数えない。
条約の中身はこうだ。私がキリスト教を受け入れる代わりに、ビルカバンバの自治を認める。私の土地は私のものだ。スペインの王に忠誠を誓うが、ビルカバンバは残る。
紙の上の約束だ。
紙の上の約束を信じているかと聞かれたら、信じていないと答える。
だが紙は残る。
剣で勝っても、勝った跡は土に沈む。紙に書けば、紙が残る。
紙が残れば、後の者が読む。読んだ者が判断する。
——だから私は、書くことにした。
一五七〇年。修道士マルコスを呼んだ。
私の声を書き取れ、と言った。
私が話す。修道士が書く。
父のことを話した。父が白い肌の連中をどう迎え、どう裏切られ、どう鎖をかけられ、どう逃げ、どう戦い、どう殺されたか。
全部話した。
兄のことも話した。降りて、死んだこと。
私のことも話した。条約を結んだこと。洗礼を受けたこと。
修道士の羽根ペンが紙を走っている。
私の声がケチュア語で出て、スペイン語になって、紙に残る。
途中で変わっているかもしれない。修道士の手を通る時に、何かが加わり、何かが落ちているかもしれない。
北の国にもそういう女がいたと、聞いたことがある。言葉を変える女。間に立って、形を変えて渡す女。
私の言葉も変わっているだろう。
だが変わっていても、残る。残らないよりはいい。
父の声は紙に残っていない。
あの日、庭で、父が最後に何か言った。聞こえなかった。
聞こえなかった言葉は、永遠に消えた。
消えた言葉を取り戻すことはできない。だが、これから消える言葉を紙に載せることはできる。
私はそれをしている。
——修道士が手を止めた。
「今日はここまでにしますか」
スペイン語で言った。私はスペイン語が少し分かる。
「もう少し」
ケチュア語で答えた。
修道士がうなずいた。
私は話し続けた。
もう少しだけ話す。
紙がある限り。声が出る限り。
翌年、私は死んだ。
病だった。
私が死んだ翌年、弟のトゥパク・アマルがビルカバンバの王になった。
その翌年、スペイン人がビルカバンバに攻め込んできた。
トゥパク・アマルは捕まり、クスコの広場で首を斬られた。
インカは滅んだ。
父が建てた山の都は焼かれ、道は草に埋もれ、石は崩れた。
だが紙は残った。
私が話し、修道士が書いた紙は、残った。
それがスペインに渡り、写しが作られ、何百年も後に、読まれた。
私はそのことを知らない。
知らないが、紙を残した。
父は国を渡した。
私は紙を渡した。
国は滅んだ。紙は残った。
——渡せるものの中で、紙が一番軽い。
一番軽いものが、一番長く残った。




