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終話 ガルシラーソ


 一六〇九年。スペイン、コルドバ。

 老人が本を書いている。

 部屋は狭い。窓が一つある。窓の外にオリーブの木が見える。

 スペインの木だ。

 私が生まれた土地の木ではない。

 私の名はインカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガという。

 長い名前だ。長い名前には理由がある。

 父はスペイン人だった。征服者の一人で、セバスティアン・ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガという。剣を持ってインディアスに渡り、ピサロの下でインカの都を攻め、その後クスコの総督府に仕えた。

 母はインカの王女だった。パリャ・チンプ・オクリョという。ワイナ・カパックの血を引く女で、征服の後、父のもとに来た。来た、というのは正確ではないかもしれない。送られた、のかもしれない。

 二人の間に、私が生まれた。

 一五三九年。クスコ。

 私の顔は、父に似ていない。母にも似ていない。

 どちらでもない顔だ。

 この言い方を、私は好まない。どちらでもない、というのは、どちらにも属さないということだ。属さないものは、どこにいても余る。

 クスコでは父の側にいた。だがスペイン人の子供たちの輪には入れなかった。母の側に行けば、インカの子供たちと遊べた。だが父の名がついている子供を、彼らは仲間だとは思わなかった。

 二十歳の時、スペインに渡った。

 父の遺産を受け取りに行った。受け取れなかった。混血の私には、征服者の息子としての正式な権利がないと言われた。

 クスコには帰らなかった。

 帰れなかったのか、帰らなかったのか。今となっては自分でも分からない。

 五十年が経った。

 私は七十歳になった。スペインの小さな町で、オリーブの木を窓から眺めながら、本を書いている。

 本の名は『インカ皇統記』という。

 父の側の話ではない。母の側の話だ。

 インカがどのように始まり、どのように広がり、どのように治め、どのように祭り、どのように歌い、どのように滅んだか。

 私はそのほとんどを見ていない。

 マンコ・インカがクスコを包囲した時、私はまだ生まれていない。ティトゥ・クシがビルカバンバで声を書き取らせた時、私はもうスペインにいた。

 トゥカペルも知らない。レフトラルという名の鷹も知らない。

 テノチティトランが燃えた時のことも、マリンチェという名の女がどの語を選んだかも、知らない。

 チェトゥマルに残った水夫のことは、聞いたことがある。聞いただけだ。

 すべて聞いた話だ。母から聞いた話。叔父から聞いた話。クスコの老人たちから聞いた話。スペインの図書館で読んだ話。

 聞いた話は、正確ではないかもしれない。

 正確ではないかもしれないが、書かなければ消える。

 消えるものを残す方法は一つしかない。書くことだ。

 ——羽根ペンを持っている。

 インクが乾きかけている。窓から風が入ってきて、紙の端がめくれる。

 私は勝った側の言葉で書いている。

 スペイン語で書いている。母の言葉ではなく、父の言葉で。

 母のケチュア語で書けば、もっと正確に書けるだろう。だがケチュア語で書いた本を、誰が読む。

 読まれなければ、書いていないのと同じだ。

 だからスペイン語で書く。

 勝った側の言葉で、負けた側の話を書く。

 書く時に、何かが変わっている。ケチュア語で聞いたものをスペイン語に変える時に、何かが落ちて、何かが加わっている。

 あの女と同じだ、と思うことがある。

 ナワトルをマヤに変え、マヤをスペイン語に変えた女。間に立って、形を変えて渡した女。

 私も変えている。母の記憶を、父の言葉に。

 正確ではないかもしれない。

 だが消えるよりはいい。

 間違っていても、残るほうがいい。

 ——窓の外のオリーブの木が、風に揺れている。

 クスコの風とは違う。クスコの風は冷たくて乾いていた。

 覚えている。五十年前の風を、まだ覚えている。

 母の声を覚えている。ケチュア語の子守歌を覚えている。歌詞は半分忘れた。旋律だけ残っている。

 名前を覚えている。

 名前を呼べば、そこに人が立つ。

 ワイナ・カパック。アタワルパ。マンコ・インカ。ティトゥ・クシ。トゥパク・アマル。

 書けば、立つ。

 紙の上に、立つ。

 紙の上に立った人間は、紙が残る限り、消えない。

 私はこの羽根ペンで、消えかけている人間を紙の上に立たせている。

 それが間違った立ち方かもしれない。記憶が歪んでいるかもしれない。聞いた話がもとから違っていたかもしれない。

 だが立っている。

 立っていないよりは、いい。

 ——私は書き終えた。

 本は印刷され、スペインで読まれた。

 その後、新しい世界でも読まれた。母の土地で読まれた。

 何百年も後に、まだ読まれている。

 私はそのことを知らない。

 知らないが、書いた。

 書くことだけが、私にできた唯一のことだった。

 渡さなかった男がいた。

 言葉を渡した女がいた。

 国を渡した王がいた。

 馬の倒し方を渡した少年がいた。

 紙を渡した王がいた。

 そして私は、本を渡した。

 どちらでもない顔の男が、どちらの言葉でもない言葉で、どちらの側でもない場所から、書いた。

 消えるくらいなら、間違っていたほうがましだ。

          了

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