第三十一話 トキ
逃げた。
夜だった。厩に入って、一番速い馬に鞍を載せた。黒い馬だ。名前は覚えていない。覚える気もなかった。
乗った。
南へ走った。
道は使わない。道を使えば追いつかれる。森に入った。枝が顔に当たる。避ける。避けきれないのは腕で払う。子供の頃と同じだ。
だが今は馬に乗っている。
速い。月が出ていた。月明かりで木の根が見える。根を避けて、石を避けて、走った。
朝までに、砦が見えなくなった。
振り返らなかった。
ビオビオ川に着いたのは二日目の昼だった。
川は広い。水が多い。雨期の後だ。
馬ごと渡った。馬は泳げる。知っていた。厩で覚えた。深い川では脚がつかないから、首にしがみついて、馬に泳がせる。
冷たい。流れが速い。何度か沈みかけた。
向こう岸についた。
馬から降りた。
ここから南は、俺たちの土地だ。
馬を放した。
手綱を外して、鞍を外して、放した。
馬は少し歩いて、振り返った。厩に帰りたいのかもしれない。だがここから先に厩はない。
走っていった。
俺は歩いた。
森を歩いた。知っている森だ。匂いが同じだ。土の匂い。苔の匂い。腐った葉の匂い。
三日目に、人に会った。
マプチェだ。俺と同じ顔をしている。
槍を構えていた。俺を見て、構えた。
「レフトラルだ」
俺は言った。
「誰だ」
知らない男だ。だが俺のことも知らない。六年前に連れて行かれた子供のことは覚えていない。
「ロンコの息子だ。六年前に白い肌の連中に捕まった」
男が槍を下ろした。
連れて行かれた。村に。
——俺の村ではなかった。
俺の村は焼かれていた。白い肌の連中が焼いた。跡地に砦が建っている。
父は生きていた。
別の村に移っていた。母もいた。姉もいた。
父の顔を見た。
老けていた。六年で、ずいぶん老けた。
俺の顔を見て、しばらく黙っていた。
「でかくなったな」
それだけ言った。
俺は十七になっていた。背が伸びた。腕が太くなった。毎日水桶を運んでいたから。
父が集めた。周りの村のロンコたちを。
俺を見せるためだ。白い肌の連中のところから帰ってきた男を見せるためだ。
男たちが集まった。三十人ほど。顔に色を塗っている者もいる。
俺を見ている。
何か話せ、という空気だ。
演説はしない。
演説というものを、俺は知らない。バルディビアが部下の前で長い話をするのを聞いたことがある。ああいうのは俺にはできない。
だから短く言った。
「あいつらは神じゃない」
男たちが黙った。
「あの獣は馬という。食って寝て糞をする。腹を壊す。暗いと怯える。蹄に石が挟まると歩けなくなる」
黙っている。
「俺は六年間、毎日あの糞を掻いた。神は糞をしない」
一人が笑った。
もう一人が笑った。
笑いが広がった。
それでいい。笑えばいい。笑えたら、怖くなくなる。怖くなくなったら、戦える。
「馬の倒し方を知っている。乗り方も知っている。あいつらの言葉も分かる。砦の場所も、兵の数も、火薬の量も知っている」
笑いが止まった。
男たちの目が変わった。
父が俺を見ていた。
何も言わなかった。だがうなずいた。
——俺はトキに選ばれた。
トキは戦の長だ。マプチェには王がいない。ロンコはそれぞれの村の頭領で、上下はない。だが戦の時だけ、トキを選ぶ。全部の村を束ねて戦う長だ。
十七でトキになった者は、たぶんいない。
カウポリカンという男がいた。
大きい男だ。俺より頭一つ高い。腕が俺の脚くらい太い。
この男がもう一人のトキだ。俺が戦の段取りを決めて、カウポリカンが前に立つ。
カウポリカンは俺を見て言った。
「お前は馬に乗れるのか」
「乗れる」
「だったら俺たちにも教えろ」
「馬がいない」
「奪えばいい」
——この男とはやれる、と思った。
訓練を始めた。
まず、長い槍を作った。
普通の槍より二倍長い。六メートルほどある。
なぜ長くするか。馬に乗った人間の剣が届く前に、こちらの穂先が届くためだ。
剣は短い。槍は長い。
馬に向かって構えると、馬は突っ込んでこない。馬は賢い。穂先が見えたら避ける。避けられなければ止まる。
止まった馬に乗っている人間は、ただの人間だ。高い場所に座っているだけだ。
引きずり落とす。
引きずり落としたら、地面でやる。地面では鉄の服は重い。重い人間は遅い。遅い人間は、俺たちより弱い。
俺たちは速い。
次に、場所を選んだ。
湿地だ。
馬は湿地が苦手だ。蹄が沈む。沈むと脚が抜けない。抜こうとすると体が傾く。傾いたら動けない。
湿地に誘い込めば、馬は使えなくなる。
馬が使えなければ、百人はただの百人だ。
毎日、訓練した。
長槍の構え方。投石紐の使い方。湿地への誘い込み方。
交代で攻めさせた。前の列が疲れたら、後ろの列が出る。後ろが疲れたら、その後ろが出る。
白い肌の連中はこれができない。数が少ないからだ。
俺たちにはできる。数がある。
三ヶ月、訓練した。
カウポリカンが言った。
「いつやる」
「クリスマスだ」
白い肌の連中の祭りの日だ。あいつらはその日、酒を飲む。飲むと鈍る。
「なぜそれを知っている」
「壁に立っていたからだ」
カウポリカンは笑った。
俺も笑った。
一五五三年十二月。
トゥカペルの砦に向かった。
六千のマプチェの戦士が、森の中を走っている。
俺は先頭にいる。走っている。馬には乗っていない。馬はまだない。
だがもうすぐ手に入る。
砦の中に、馬がいる。
砦の中に、バルディビアがいる。




