第二十九話 フェリペ
名前を取られた。
長い服の男が水をかけて、何か唱えて、フェリペと言った。
フェリペ。
俺の名じゃない。
レフトラルだ。速い鷹だ。フェリペという鳥は知らない。
だが呼ばれたら振り向かないと殴られる。殴られると痛い。痛いのは嫌だ。
だからフェリペと呼ばれたら振り向く。振り向くが、頭の中ではレフトラルだ。
バルディビアの従者にされた。
従者というのは何をするかというと、全部だ。
朝、起こされる。水を汲む。飯を運ぶ。靴を磨く。服を畳む。剣を拭く。床を掃く。
それから、馬だ。
馬の世話をしろと言われた。
厩に連れて行かれた。
臭い。
暗くて、臭くて、温かい。獣の体温で小屋全体がぬるい。
馬が六頭いる。
でかい。近くで見ると、もっとでかい。戦の時は上から見下ろされた。今は横にいる。横にいても大きい。頭が俺の倍はある。
最初の仕事は、糞の始末だった。
馬は大量に糞をする。
朝、厩に入ると、夜の間にした分が積んである。藁の上に、どっさり。
掻き出す。両手で。道具はない。最初の頃は素手だった。後で木のへらを貰った。
糞は温かい。湯気が出ている。草の匂いがする。草を食って、草の匂いの糞を出す。当たり前だ。
掻き出して、外に運んで、捨てる。戻ると、もう次のが出ている。
こいつら、よく出す。
次に、水をやる。
桶に水を入れて、持っていく。重い。十一の腕には重い。こぼす。こぼすと殴られる。
馬は水をよく飲む。一頭で桶二杯は飲む。六頭で十二杯。
十二回、水を運ぶ。
次に、餌をやる。
干し草と、穀物の粒。粒は量を間違えると腹を壊す。腹を壊すと糞が柔らかくなる。柔らかい糞は掻き出しにくい。
量を覚えた。
次に、体を洗う。
布で拭く。首から背中、背中から腹、腹から脚。毛の流れに沿って拭く。逆に拭くと嫌がる。嫌がると蹴る。蹴られると死ぬかもしれない。
毛の流れを覚えた。
蹄の裏を掻く。蹄の間に石が挟まる。挟まったまま走ると脚を痛める。脚を痛めると使い物にならない。
使い物にならない馬は殺される。
石の取り方を覚えた。
——覚えることが多い。
全部覚えた。
一月もすれば、目を閉じても馬の世話ができるようになった。どの馬が何杯水を飲むか。どの馬の蹄に石が挟まりやすいか。どの馬が人を噛むか。
噛む馬は一頭だけだ。栗毛の、目の小さいやつ。名前はなんとか言ったが忘れた。こいつだけ、横から近づくと噛む。前から行けば噛まない。
——こいつら、怖がっている。
馬は怖がりだ。
大きい音がすると跳ねる。知らない匂いがすると鼻を鳴らす。暗いところで急に触ると暴れる。
戦の時、あんなに強かった。突っ込んできて、人を飛ばして、踏んだ。
だが厩では怖がりだ。猫が横切ると目を剥く。風で戸が鳴ると脚を踏み替える。
こいつら、神じゃない。
部族の年寄りが言っていた。白い肌の連中が乗っている獣は、人と一体の神だと。
嘘だ。
一体じゃない。人が降りたら、ただの獣だ。
腹を壊す。怖がる。糞をする。蹄に石が挟まる。噛む。寝る時は横になる。横になると立ち上がるのに時間がかかる。
神は糞をしない。たぶん。
俺はこのことを、誰にも言わなかった。
言えば殴られる。そういう問題ではない。
言ったら、この知識が取られる。
名前は取られた。レフトラルを取られてフェリペにされた。
だがこの知識は取られない。頭の中にある。出さない限り、俺のものだ。
——それから、もう一つ気づいた。
馬に乗れるのは、白い肌の連中だけだ。
俺たちには乗らせない。触らせる。洗わせる。糞を掻かせる。だが乗らせない。
なぜか。
乗れたら、同じになるからだ。
馬に乗った人間と、地面に立っている人間は違う。高い。速い。重い。上から来る。
乗れたら、同じになる。同じになったら、勝てなくなる。
だから乗らせない。
——俺は乗りたい。
乗ってみたい。
あの背中に乗って、走りたい。俺は速い鷹だ。村で一番速かった。だが馬には負けた。
馬に乗れば、馬より速い人間になれる。
毎日、糞を掻いている。毎日、水を運んでいる。毎日、体を拭いている。
毎日、見ている。
白い肌の連中が馬に乗るところを見ている。
鞍の置き方。手綱の持ち方。足の入れ方。声のかけ方。体の傾け方。
全部見ている。
全部覚えている。
俺はフェリペと呼ばれている。バルディビアの馬の糞を掻く子供だ。
だが頭の中では、俺は乗っている。
毎晩、目を閉じて、乗っている。
風を切っている。
——いつか、本当に乗る。
いつかは分からない。だが乗る。
乗って、あの男の前に立つ。
バルディビア。
こいつの名前は忘れない。
忘れないし、返す。




