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彼女が好きだったのは僕じゃなくて、僕の書く遺書だった  作者: 一ノ瀬 このは


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第一話 遺書の書き出し

放課後の校舎には、まだ昼の熱が残っている。

教室の窓は半分ほど開いたままで、風が通るたび、カーテンの裾が机の角に触れて小さく音を立てた。


廊下の向こうでは運動部が部室へ向かう足音が続き、グラウンドからは金属バットの乾いた響きが、一定の間隔で空気を震わせている。

授業が終わり、学校全体がひと息ついたような時間が流れている。その感じが、朝倉(あさくら)は嫌いではなかった。


使われなくなった旧校舎側の階段は、その時間になるとほとんど人が来ない。

三階と四階のあいだにある踊り場は窓際のガラスが少し曇っていて、そこに座っていると外の景色が見えないところが逆に落ち着く。

朝倉は鞄からノートを取り出し、壁に背中を預ける。

膝の上に開いたノートは、ごく普通の、どこにでもある安いものだったが、最初のページの端にだけ、小さく「遺書」と書いてある。


朝倉はシャープペンの先で紙を一度だけ軽く叩いてから、書き始めた。


-------------------------------------------------------------------------------------

母さんへ。

たぶん、最初にこれを読むのは母さんだと思うので、そう書きます。

これを読んでいるということは、僕はもうこの世にはいないのでしょう。

-------------------------------------------------------------------------------------


そう書いて、朝倉は一度ペンを止めた。

ノートに視線を戻し、続きを書く。


-------------------------------------------------------------------------------------

今日の英語の授業で、先生に当てられたとき、答えがわからなかったわけじゃありません。

でも、みんながこっちを見るあの瞬間が嫌で、口を開けないまま時間が経ってしまいました。

隣の佐伯(さえき)が小声で現在完了って教えてくれたのに、僕はそれにも反応できませんでした。

大げさだと思うけれど、そのときは教室の中で自分だけ置いていかれたみたいな感じがしました。

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そこまで書いて、朝倉はふっと息を吐いた。自分で読んでも、くだらないことしか書いていない。

人がほんとうに死ぬ前に残す文章とは違うのだろうと思う。

それでも、頭の中でぐるぐる回っていたものが紙の上で整理される。その感じを、朝倉は気に入っていた。


今日はほかにも書くことがあった。


昼休み、教室の後ろで誰かが撮った写真がグループLINEに上がって、自分の顔が映り込んだこと。

自販機前に並んでいた他学年の生徒が小銭を床に落としたとき、拾ってやろうと思ったのに体が動かなかったこと。

古典のノートを借りた相手に「助かった」と言うべきだったのに、「悪い」で済ませたこと。


どれも大したことではない。けれど夜になると、なぜか思い返してしまう。

そういうことがあった日に、この踊り場に来て『遺書』を書いていた。


書き終えるころには、窓の外の白っぽい空が少しずつ茜色に染まってきていた。

野球部の掛け声はまだ続いていて、吹奏楽部は基礎練習に入ったのか、長い音が遠くに伸びている。

朝倉はノートを閉じ、いつものように鞄へ入れ、いつものように教室へ戻り、そのまま帰った。



夕飯は生姜焼きで、妹が味噌汁に入っていたねぎを残し、父はニュースを見ながら相づちだけ打っていた。

風呂に入り、適当に宿題をやり、ベッドに入る前に英単語帳を少しだけ開いた。


いつもと変わらない一日だった。



翌朝、ようやく異変に気づいたときには、もう遅かった。


あのノートが無い。


通学路を歩きながら記憶をたどっていくうちに、どう考えても最後にノートを見たのは教室だった気がしてきて、足取りが少しずつ重くなった。

鞄の中に入れたつもりで、机に置きっぱなしにしてしまったのだろうか。


教室に着いて机の上を見たが、ノートは無かった。

机の中も覗いたが、こちらも空っぽである。


肝が冷えるのがわかった。


遺書、と表紙に書かれたノート。中を開けば、母さんへ、から始まる文章。

気味が悪いと思われても当然だ。

誰かが面白半分で読んでいるところまで想像して、朝倉は急に居心地が悪くなった。


午前中の授業はほとんど頭に入らなかった。

昼休み、ふだん一緒に弁当を食べる連中のくだらない話にも、うまく笑えない。誰かがこっちを見ている気がして何度か顔を上げたが、もちろんそんなことはなかった。



五時間目が終わり、教室の空気がゆるみ始めたころだった。


「朝倉」


不意に名前を呼ばれ、朝倉は顔を上げた。

篠崎(しのさき)(みお)が、自分の机の横に立っていた。


篠崎はクラスの中心にいるタイプだった。休み時間になれば自然と人が集まるし、教師からの受けもいい。

朝倉とは、特別話したことはない。


その篠崎が、朝倉の机の上に青いノートを置いた。


「これ、朝倉のだよね」


見慣れた表紙だった。喉の奥が乾く。


「……どこにあったの」

「昨日、教室に落ちてたよ」


すぐにノートを奪い取ろうとしたが、篠崎の指がまだ表紙を押さえていて取れそうにない。

何より、もう読まれているかもしれないという絶望感に包まれて動けなかった。


朝倉の沈黙を見て、篠崎は先に口を開いた。


「……ごめん。少し読んだ」

「最悪だ……」

「本当にごめん」


軽く流すでもなく、変に励ますでもなく、篠崎は真剣な目をして謝ってきた。

そのせいで、朝倉はかえって黙ることしかできなかった。もっと雑に「ごめんごめん」で済まされたほうが、まだ怒れたかもしれない。


篠崎はノートから手を離し、それでも机の横からどこうとはしなかった。

教室の後ろのほうでは部活の予定を話している声がして、窓際では誰かがプリントを丸めて投げている。


「死ぬの?」


篠崎は、小さな声でそう訊いた。

朝倉は思わず眉をしかめた。


「別に、死ぬつもりはないけど」

「ほんとに?」

「ほんとに」

「じゃあ、なんでああいうの書くの」


そこは自分でもうまく説明できないところだった。

うまく言えば癖で、悪く言えば気持ち悪い習慣だ。だから朝倉は、少し迷ってから正直に言った。


「……日記みたいなもんだよ」

「日記?」

「ああやって書くと、なんというか、気負わずに書けるんだよ」


篠崎はそれを聞いて、しばらく黙っていた。からかうでも気味悪がるでもなく、ただ考えるように目を伏せる。


「ええと、返してくれてありがとう」


会話を終わらせるつもりでそう言うと、篠崎は顔を上げた。


「次に書いたら、それも読ませて」


朝倉は一瞬、聞き間違いかと思った。


「……は?」

「次のも」

「何、言ってんの」

「変なこと言ってるのはわかってる。でも、読みたいの」


少し必死さすら感じる言い方だった。からかい半分で言っているようには見えない。


「気味悪くないのかよ」

「気味悪かったら、こんなこと言ってない」

「じゃあ何で」

「……わかんない」


小さくそう続けてから、篠崎は口を閉じた。朝倉が待っても、それ以上は何も言わなかった。

代わりに彼女は、一度だけノートの表紙に視線を落とし、そこに書かれた「遺書」の二文字を見る。


「朝倉の文章、似てるの」


誰に、と聞き返そうとしたが、篠崎はじゃあね、とだけ言って自分の席へ戻ってしまった。

いつものように友達に呼ばれ、いつものように笑って返事をしている背中を見ながら、朝倉はさっきまでの会話を反芻していた。



家に帰ってからも、ノートを開く気にはなれなかった。


読まれたという事実だけでも最悪なのに、その相手が「次も読ませて」と言ったことが、ずっと心にひっかかっていた。

嫌なはずなのに、頭のどこかで、その一言を喜んでいる自分がいる。


夕飯のあと、机の上にノートを置いてしばらく眺めた。

表紙は昨日と同じなのに、何か違うものに見えてくる。自分しか知らない場所に埋めておいたはずのものが、掘り返されて空気に触れてしまった感じがした。


それでも結局、朝倉はノートを開いた。


新しいページに、少し迷ってから書き出す。


-------------------------------------------------------------------------------------

母さんへ。

たぶん、最初にこれを読むのは母さんだと思うので、そう書きます。

これを読んでいるということは、僕はもうこの世にはいないのでしょう。

-------------------------------------------------------------------------------------


そこまで書いたところで、朝倉は自分で自分の字を見つめた。

おかしなことになった、と思う。

誰にも見せないからと自由に書いていたが、いまはもう、その前提が崩れている。


ペン先を紙につけたまま、しばらく動けなかった。


それでもページを閉じる気にはなれず、朝倉はそのまま椅子に座り続けた。窓の外では、向かいの家のベランダに干されたシャツが、夜の風にゆっくり揺れていた。

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