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一九八〇年。
午前十時四十七分。
地方都市の外れ。
築年数不明。
壁は薄く、冬は寒く、夏は暑い。
トイレ共同。
風呂なし。
廊下を歩くだけで床がギシギシ鳴る。
そんな昭和のクソ汚い木造アパート――“寿ハイツ”の二階で、小野田レイは寝ていた。
「ぐごぉ〜〜〜……のだぁ……」
口を開けていた。
布団は半分落ちていた。
昨夜、幽霊と河川敷で話し込んだあと、レイはコンビニでカップ麺を買い、そのまま帰宅して即寝落ちしたのである。
ちなみに。
部屋は地獄みたいに汚かった。
床にはジャンプ。
脱ぎっぱなしの靴下。
食べ終わったカップ焼きそば。
謎のプラモデル。
雀荘のチラシ。
そして。
天井には穴が空いていた。
「……のだぁ……モテたいのだぁ……」
寝言である。
すると。
すぅ…………
部屋の隅。
空気が揺れた。
白い影。
長い黒髪。
白衣。
あの女幽霊だった。
「…………」
女は静かに部屋を見回した。
汚かった。
非常に汚かった。
特に台所。
シンクには三日前の皿が積まれている。
「…………」
女幽霊は少し引いていた。
そして。
スゥ……とレイの近くへ浮かぶ。
寝顔を見下ろした。
「…………」
レイは熟睡していた。
口元にはヨダレ。
しかも時々「のだっ♡」と笑っている。
たぶん夢の中でモテている。
最低だった。
女幽霊はしばらく無言で見ていた。
本当に。
しばらく。
数十年ぶりだったのである。
まともに会話した相手が。
怖がるだけではなく、逃げるだけでもなく、途中から説教してきた変な男。
「…………」
女幽霊は少しだけ首を傾げた。
人間。
こんなのだっただろうか。
もっとこう。
真面目で。
恐怖に震えて。
神妙な顔をするものでは。
だがこの男。
途中から「迷惑なのだぁ!」とキレ始めた。
意味が分からない。
「…………」
でも。
嫌ではなかった。
その時。
レイが寝返りを打った。
「のだぁ……」
ゴロン。
そして。
目を開けた。
「……んぁ……」
寝ぼけていた。
目の前が白かった。
「……のだ?」
視界がぼやける。
近い。
めちゃくちゃ近い。
女幽霊が、至近距離でこちらを見下ろしていた。
「…………」
「…………」
数秒沈黙。
レイの脳が覚醒した。
「のだぁああああああああああああああああ!!!!!!!!」
絶叫。
人生最大だった。
レイは反射的に後ろへ飛んだ。
だが。
部屋が狭すぎた。
後頭部を壁に強打。
「のだっ!!」
ゴッ!!
そしてそのまま失神した。
「…………」
女幽霊は固まった。
「…………」
気まずかった。
非常に。
三分後。
レイは目を覚ました。
「……のだぁ……?」
天井。
ボロい。
頭痛い。
「……夢……?」
「……起きた……?」
「のだぁああああああああ!!!!」
再絶叫。
レイは布団を被った。
「いるのだぁ!!まだいるのだぁ!!」
「…………」
「帰れなのだぁ!!」
「……ごめんなさい……」
「謝るななのだぁ!!余計怖いのだぁ!!」
布団の中でガタガタ震えるレイ。
女幽霊は困っていた。
「……でも……」
「のだぁ?」
「……話し相手……いなかったから……」
「…………」
レイは布団から少し顔を出した。
女幽霊は俯いていた。
「……ずっと……病院にいた……」
「……のだ」
「……誰も……話してくれなかった……」
「…………」
レイは黙った。
弱い。
こういう空気に弱い。
同情すると負けな気がするのに、なんか放置もしづらい。
「……のだぁ」
レイはモゾモゾ布団から出た。
「だからって朝っぱらから顔面ドアップはやめるのだぁ……」
「……ごめんなさい……」
「あと失神したのだぁ……吾輩、普通に死ぬかと思ったのだぁ……」
「…………」
女幽霊はしょんぼりしていた。
レイは頭を掻いた。
「……うむ。とりあえずなのだぁ」
「…………?」
「もっと遠くから出てくるのだぁ」
「……遠く……?」
「そうなのだぁ!!徐々に慣らせなのだぁ!!」
レイは力説した。
「いきなり顔はダメなのだぁ!!段階というものがあるのだぁ!!」
「…………」
「まず玄関からなのだぁ!!」
「……うん……」
「次に部屋の隅なのだぁ!!」
「……うん……」
「最後にちょっと近づくのだぁ!!」
「……分かった……」
「教育完了なのだっ♡」
何を教えているのか分からなかった。
その後。
レイは台所へ向かった。
寝癖ボサボサ。
シャツはヨレヨレ。
「……腹減ったのだぁ」
棚を開ける。
カップ麺しかない。
「うむ!朝食なのだっ♡」
お湯を沸かし始める。
女幽霊は少し後ろから見ていた。
「…………」
「のだぁ?食べるのだぁ?」
「……食べれない……」
「不便なのだぁ……」
レイはズルズル麺を食べ始めた。
「うむ!うまいのだっ♡」
「…………」
「のだぁ?」
「……それ……毎日……?」
「うむ!」
「…………」
女幽霊は引いていた。
「……栄養……」
「昭和の大学生はだいたいこんなものなのだぁ!」
実際かなり酷かった。
レイはコーラを飲みながら新聞を見る。
「のだぁ……単位めんどいのだぁ……」
「…………」
「あとバイトもクビになりそうなのだぁ……」
「…………」
「でもモテたいのだぁ」
「…………」
女幽霊は少しだけ笑った。
レイはその笑顔を見て、なんか変な顔になった。
「……のだ」
怖い。
でも。
昨日ほどではない。
慣れてきてしまっている。
人間の適応力は恐ろしい。
すると。
アパートの壁の向こうから怒鳴り声がした。
「小野田ぁ!!朝からうるせぇぞ!!」
隣人だった。
「昨日も夜中ギャーギャー騒ぎやがって!!」
「のだぁ!?すまんのだぁ!!」
レイは慌てて謝る。
女幽霊は少し驚いていた。
「……怒られてる……」
「うむ。世の中厳しいのだぁ……」
レイはしょんぼりした。
女幽霊はその姿を見て、また少し笑った。
その日から。
クソ汚いアパートには、毎晩白衣の女幽霊が現れるようになった。
なお。
レイは毎回叫んで失神しかけていた。




