29
午前三時。
漁村の海はさらに暗くなっていた。
風も強い。
波も高い。
防波堤の先では白波が砕け、沖には漁火だけがぼんやり揺れていた。
「のだぁ……」
小野田レイは震えていた。
寒い。
怖い。
眠い。
だが。
好奇心だけは死んでいない。
「夜中に沖へ引き込まれる噂……」
レイはメモ帳を見た。
「これは強いのだぁ……」
漁師の間で昔から有名らしい。
夜中、海を見る。
すると沖に女が立っている。
声をかけられる。
近づく。
そのまま海へ消える。
溺死。
失踪。
古い漁村にはよくある話だった。
「のだっ♡」
レイは少しテンションを上げた。
「美人な人魚でもいるとかなのだぁ!?楽しみなのだぁあああ!!」
その瞬間。
ブワァッ!!
シズカが髪を逆立てた。
「のだぁ!?」
「……浮かれすぎ……」
「痛いのだぁ!!」
最近、完全に髪遊びされていた。
レイの頭は今、昭和ロックバンドみたいになっている。
「人魚なのだぁ♡」
「絶対違う……」
「美女系怪異の可能性あるのだぁ!」
「なんで嬉しそうなの……」
レイは懐中電灯を持ちながら海岸沿いを歩いた。
砂浜。
濡れた岩。
古い祠。
崩れた鳥居。
「のだぁ?」
レイが止まる。
海辺に、小さな石塔が並んでいた。
かなり古い。
風化している。
読めない文字。
崩れた供物。
「……なんなのだぁ?」
シズカが近づく。
「……嫌な感じする……」
「のだぁ?」
風が吹く。
海が揺れる。
そして。
レイは聞いた。
歌。
女たちの歌声。
遠い。
低い。
波に混じるみたいな声。
「…………」
「のだ」
レイの顔色が変わる。
「聞こえるのだぁ?」
「……うん……」
歌声は沖から聞こえていた。
暗い海の向こう。
何かがいる。
「のだぁ……」
レイは怖くなった。
だが。
同時に。
オカルト作家としての脳が動く。
「強いのだぁ……」
「帰った方がいい……」
「いやでもぉ!」
レイは震えながら前を見る。
「超大ネタかもしれないのだぁ!」
シズカは少し困った顔をした。
「……死ぬかも……」
「のだぁ……」
レイは少し黙る。
そして。
「……ちょっとだけ見るのだっ♡」
「帰ろうよ……」
だが。
もう遅かった。
海。
沖。
波の向こう。
白いものが浮いている。
一つじゃない。
二つ。
三つ。
もっと。
「…………」
「…………」
女だった。
無数。
髪が海に広がっている。
白い着物。
青白い顔。
そして。
全部、女。
「のだぁぁぁぁ……」
レイの喉が引き攣る。
シズカも顔が硬い。
「……多い……」
歌声が近づく。
ゆっくり。
ゆっくり。
波と一緒に。
すると。
女たちの一人が口を開いた。
「……返せ……」
「のだ」
「……海へ返せ……」
別の女。
「……沈め……」
さらに別の女。
「……人間……」
レイの背筋が凍った。
違う。
今までと。
旅館の霊とも。
病院の霊とも。
これは。
もっと古い。
もっと粘ついた恨み。
「のだぁ……」
レイは震えながら後退った。
「な、なんなのだぁ……?」
その時。
シズカが小さく呟いた。
「……生贄……」
「のだぁ?」
「……昔、海が荒れると……女を沈めた村ある……」
「…………」
レイの顔から血の気が引いた。
海女たちの話。
古い祠。
崩れた石塔。
全部繋がる。
「……村を守るために……」
シズカの声も震えていた。
「……若い女、海へ捧げた……」
「のだぁ……」
レイは海を見た。
女たち。
無数。
沈んだ顔。
腐った着物。
絡みつく髪。
そして。
全部こちらを見ている。
「…………」
一人が笑った。
グチャッと。
口が裂ける。
「……来い」
「のだぁ?」
次の瞬間。
ザバァァァァァッ!!
海から大量の腕が伸びた。
「のだぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
レイ絶叫。
ガシィッ!!
足を掴まれる。
「冷たいのだぁぁぁ!!」
引っ張られる。
海へ。
沖へ。
「のだぁぁぁぁぁ!!シズカぁぁぁ!!」
「逃げて!!」
シズカも叫んでいた。
レイは必死に砂を掴む。
だが。
女たちの数が多すぎる。
「……沈め……」
「……返せ……」
「……人間……」
腕。
髪。
濡れた指。
全部がレイへ絡みつく。
「のだぁぁぁぁぁ!!!!」
レイ、完全に泣いていた。
「吾輩まだ書籍化したばっかりなのだぁぁぁ!!」
必死だった。
本気で。
死ぬ。
すると。
シズカがレイの腕を掴もうとした。
当然すり抜ける。
「…………っ」
「のだぁぁぁ!!」
レイは岩を掴んだ。
必死に。
涙と鼻水で顔ぐちゃぐちゃ。
「嫌なのだぁぁぁ!!」
そして。
本能で走った。
「のだぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
全力疾走。
砂浜。
転ぶ。
起きる。
走る。
背後。
海から無数の女の声。
「……返せ……」
「……沈め……」
「……海へ……」
「のだぁぁぁぁぁ!!」
レイは人生最大レベルで走っていた。
シズカも必死で追いかける。
「こっち!!」
「嫌なのだぁぁぁ!!」
レイは防波堤を飛び越えた。
膝を擦る。
痛い。
でも止まれない。
海が後ろから来る。
「のだぁぁぁ!!」
旅館の灯りが見えた。
その瞬間。
女たちの声が遠ざかる。
海岸線から先へは来ない。
「…………」
「…………」
レイは旅館前で倒れ込んだ。
ゼェェェ……!!
涙。
鼻水。
汗。
全部ぐちゃぐちゃ。
「し、死ぬのだぁぁぁ……」
シズカも息を切らしていた。
「……だから帰ろうって……」
「マジで人魚じゃなかったのだぁぁぁ!!」
レイは本気で泣いていた。
遠く。
真っ暗な海の向こう。
まだ。
歌声だけが聞こえていた。




