28
一九八二年。
深夜一時。
漁村の海は真っ暗だった。
波の音だけが響いている。
防波堤。
濡れた岩。
遠くの漁船の灯り。
そして。
「のだぁ……」
小野田レイは震えていた。
海風が寒い。
怖い。
暗い。
しかも。
今回は山ではなく海だった。
「海って嫌なのだぁ……」
レイは懐中電灯を握り締める。
「底が見えないのだぁ……」
隣にはシズカ。
白衣姿の女幽霊は、防波堤に腰掛けながら静かに海を見ていた。
「……静か……」
「静かすぎるのだぁ……」
レイは半泣きだった。
だが。
来た。
なぜなら。
編集者が酒飲んで寝たからである。
『海女の話なら夜の浜行けば何か出るんじゃね?』
『小野田なら引くだろ』
そう言って布団へ潜っていった。
「のだぁ……」
レイは遠い目をした。
「吾輩の扱い、犬なのだぁ……」
その時。
波打ち際。
スゥ…………
白い影が現れた。
「のだ」
レイ、硬直。
海女だった。
白装束。
濡れた髪。
痩せた顔。
裸足。
そして。
何人もいた。
「のだぁぁぁ……」
レイは震える。
だが。
最近はもう反射的にメモ帳を出すようになっていた。
「しゅ、取材いいですのだぁ……?」
波の音。
沈黙。
海女の幽霊たちは静かにレイを見ていた。
「……変な人間」
最初に口を開いたのは、年配の海女だった。
肌は青白い。
腕は痩せ細っている。
だが目だけは妙に強かった。
「のだぁ……」
「逃げないの?」
「怖いのだぁ……」
レイは正直だった。
「でも記事になるのだぁ……」
海女たちは少し困惑した顔をした。
シズカは静かに横で見ている。
海女の一人がレイへ近づいた。
「……あんた、作家?」
「のだっ♡」
レイは少し元気になる。
「書籍化決定したのだっ♡」
「へぇ……」
「なのでぇ!」
レイはメモを開いた。
「海女怪談の真実を教えてほしいのだっ♡」
波が揺れる。
海女たちは少し黙った。
やがて。
年配の海女がぽつりと話し始める。
「……昔はね」
「のだぁ」
「海女は命が軽かった」
レイのメモの手が止まる。
「嵐でも潜らされた」
「のだ……」
「男衆は船に乗るけど、女も海に入った」
「…………」
「寒くても、熱があっても」
波の音。
「潜れないと食えないから」
「のだぁ……」
レイの顔が少し真面目になる。
「若い子ほど無理させられた」
「…………」
「肺が弱くても」
「息が短くても」
「……潜ったのだぁ?」
「潜るしかなかった」
別の海女が口を開く。
「冬の海で足攣って、そのまま上がってこなかった子もいた」
「のだ」
「流されても“運が悪かった”で終わり」
「…………」
「船が戻ってこなくても、海女は次の日また海へ行った」
レイは静かに聞いていた。
いつもの“盛れるのだっ♡”みたいな顔ではなかった。
「……漁村って優しいだけじゃないのだぁ……」
「海は食わせてくれるけど」
海女が言う。
「海は平等に殺すから」
波が岩にぶつかる。
ザァァァ……
「若い頃、あたしら夜中に潜ったこともある」
「のだぁ?」
「密漁」
「のだっ♡」
レイ、即反応。
「昭和の闇なのだっ♡」
「生活だったんだよ」
海女は少し笑った。
「旅館に卸す鮑も、色々あった」
「のだぁ……」
「警察来る時だけ隠れたりね」
別の若い海女幽霊が、ぼそりと言った。
「……村の偉い人に逆らえない女もいた」
「…………」
レイの手が止まる。
「借金ある家とか」
「のだ」
「親が病気の家とか」
「…………」
「若い海女は、色々我慢してた」
波音。
暗闇。
レイは少し俯いた。
「……海って怖いのだぁ」
「山も怖いよ」
海女が笑う。
「人間いる場所は大体怖い」
「のだぁ……」
シズカは静かに海を見ていた。
「……昔の人、ずっと大変……」
「今も大変なのだぁ」
レイは鼻をすすった。
「吾輩なんて原稿落としただけで泣いてるのだぁ……」
「それは別問題じゃない?」
若い海女が少し笑った。
レイは少しだけ安心した。
「のだぁ……」
波打ち際。
幽霊たちは静かだった。
怖い。
でも。
病院の霊とも、旅館の霊とも違う。
どこか疲れている。
海の匂いが染み付いていた。
「……なぁ」
年配の海女がレイを見る。
「書くの?」
「のだぁ?」
「あたしらのこと」
レイは少し考えた。
風が吹く。
メモ帳が揺れる。
「……書くのだぁ」
「そう」
「でも」
レイは海を見る。
「ちょっと盛るのだっ♡」
海女たちが吹き出した。
「正直だねぇ」
「作家なのだっ♡」
「どんな風に?」
レイはサングラスをクイッと上げた。
「吾輩が超カッコよく海の怪異に立ち向かう感じなのだっ♡」
「さっきまで震えてたのに?」
「演出なのだっ♡」
海女たちは笑っていた。
深夜の海。
幽霊たち。
波の音。
その中で。
レイはメモを書き続けていた。
怖がりながら。
鼻水すすりながら。
それでも。
ちゃんと話を聞いていた。




