9.DAY22 十月二十日(月) 奈良県桜井市
ぼくは青いアクリルのキーホルダーを、てのひらで転がし続ける。
透明なアクリルの瓶の中に沈んでいる青い球。ぼくがタピオカみたいだって言ったら、「もう絶対さわらせへん」と姉ちゃんが言ったっけ。
韓国製の文字。わざわざ大阪まで友達と買いに行って来たって、姉ちゃんは自慢していた。
これを見つけたのは、五日も前のことだ。
夜中に、庭で足音がした次の日。ぼくは庭を調べた。
うちの庭は、そんなに広くない。裏には、スチールの物置があるだけ。
小さな花壇の草かげに、このキーホルダーを見つけた。
そのときは、姉ちゃん、これ見つかったら喜ぶぞって思った。すぐに、母さんに話そうと思って部屋に行ったら、母さんは部屋で泣いていたので言えなくなった。
母さんは、部屋の灯りもつけず、暗い中で「ごめんね……ごめんね」って何度もつぶやいていた。
それで、キーホルダーは大事にしまっておいた。
なのに、姉ちゃんは……もう帰ってこない。
姉ちゃんがあんな形で見つかって家の人はみんな泣いてたけど、ぼくは……とても悲しいのに、涙は出なかった。
いつも姉ちゃんに泣き虫って言われてたのに。どうやったら泣けるのかわからなかった。
このキーホルダーを、姉ちゃんにちゃんと返してあげたかったのに。
でも、これ、姉ちゃんはいつ落としたんだろ。
ぼくが見つけたのは、姉ちゃんのカバンと靴が山で見つかった次の日だ。
発見されたカバンにはついていなかったんだから、その前に落としたってことになる。
これは姉ちゃんの大のお気に入り。姉ちゃんが、もし無くなったのに気づいてたら、きっと大騒ぎして、ぼくなんか一番に疑われていたはずだ。
いつ、この庭に落ちたんだろ。
やっぱり、あの夜に庭にいた誰かが、とても怪しい。
でも、あの誰かって……。家に入ってきたのか……。
ぼくは、それ以上怖くて、考えられなかった。
そのとき、階段を上ってくるミシミシっと音がして、突然、部屋のドアが開いた。
——お父さんだった。
ぼくはとっさに、手に持っていたキーホルダーを握りしめて隠そうとした。
でも、お父さんがそれに気づく。
それが、姉ちゃんのキーホルダーだって気づいたお父さんの表情が変わった。
「咲良、それ、姉さんのじゃないのか?」
「……うん庭で拾った」
お父さんの顔が、ひどく驚いたように見えた。
「庭? いつ? いつ見つけたんだ」
お父さんの声が急に大きくなって、ぼくの心臓がぎゅっとなった。
「木曜日……」
「それって、姉さんが見つかる前、五日も前じゃないか。……なんで、すぐに言わなかった」
お父さんの顔から表情が消え、その顔は何かのお面をかぶっているみたいに見えた。
「……姉ちゃんに返してあげようと思って」
しばらく黙っていたお父さんは、「かしなさい」と言って、ぼくからキーホルダーを取り上げた。
ぼくは、何か、やってはいけないことをやってしまった……そんな気がした。
お父さんが部屋を出て行っても、頭の中では、何かがチカチカと光って、ちゃんと考えることができなかった。
はあはあとなっていた息が、少しゆっくりになる。
「姉ちゃんは誰かに殺された」――そのことが、頭の中をぐるぐるしていた。
誰に……。誰が姉ちゃんを……。
——あの夜、うちに入ってきたのは誰?
もしかしてお父さんは何か知っているんじゃないか。
そんな考えが頭から離れなくなった。でも、それ以上考えるのは怖かった。
そのとき、階段を上がってくる足音が聞こえた。
思わず呼吸が止まったとき、部屋のドアが開いた。
「どうしたの、咲良、夕飯に降りてきなさい」
おばあちゃんのいつもの声を聞いて、ぼくは泣きそうになった。
「今日は食べたくない。おなか痛いから……」
その夜は、そのまま部屋から一歩も出ず、ずっと聞き耳をたてていた。
怖い。
怖いのが何か、よくわからなったけど、さっきのお父さんの声だけが、耳の奥に残っていた。思い出すたび、おなかの中がぎゅっと縮む。
いつ、目の前のドアを開けて、何かがやってくるかもしれない……。
それは、夜の庭を歩き、ぼくの部屋までやってくる。
ぼくは、この家を出ることを真剣に考えてみた。
居間にある大きな姉ちゃんの写真が、頭に浮かんだ。
そうだ、世界は終わるんだ。
姉ちゃんもいない。
だったら——一回くらい、自分のしたいことをしてもいいんじゃないか。
世界が終わるなら。
——USJに行きたい。
そう思った。クラスのみんなは行ったことあるのに、まだ行ったことがないのは、ぼくだけだった。
嘉月がいつも、そのことでぼくをからかった。「関西におって、行ったことないなんて、おまえはここにおる資格ないな」って。
お母さんはしんどいし、お父さんは仕事で忙しい。おばあちゃんも歳だから無理っていうから、うちは行けないんだと思ってた。
どうせ世界が終わるんなら、一回ぐらい行ってみたかった。
そう決めたぼくは、夜遅くまでかかってしっかりと準備をした。
——次の日の朝早く、まだ陽が昇る前に、ぼくは家を出た。
背中のリュックには、これまでお年玉で貯めた貯金を全部持ってきた。そのとき、姉ちゃんの机の上にあった姉ちゃんの貯金箱の中身と電車のカード、それに姉ちゃんの白い腕時計も持ってきた。姉ちゃんが怒る顔が浮かんできたけど、全部終わるんだ。あとのことを考えるのは、なしにした。
ひとりで電車に乗るのもはじめてだった。
改札を通るとき、カードをタッチする右手が少し震えた。
ぴっ、という音。ひとりでもちゃんと通れた。
それだけで、胸の奥に張り詰めていたのが少しゆるむ。
ぼくは、足を止めずに歩いた。立ち止まると、不自然に見える気がした。
駅員に呼び止められるかもしれない。
「こんな朝早く、きみひとり?」って聞かれるかもしれない。
そんなこと、たぶんない。
わかっているのに、頭の中で何度もそうなった。
階段を下りる。
ホームには、早朝なのに人がたくさんいた。
スーツの人。大きなスーツケースを持った人。リュックを背負った家族。
みんな、それぞれ違う方向を見ている。
誰もぼくを見ていない。
そう思うけど、もしかしたら、もうお父さんが警察に連絡したかもしれない。
線路の向こうから電車が来る。
ぼくは黄色い線の内側で、つま先をきっちりそろえた。
ごうっ、とホームに風が吹きつけ、思わずまぶたを閉じた。
開くと、緑の車体が目の前に止まっていた。
扉が開くとぼくは、ほかの人たちについて中へ入った。
座席はたくさん空いていた。ちょっと、周りを見回して、みんなが座ったあと、いちばん広く空いている席に座った。路線図がよく見える席だ。路線図を見上げ、頭の中でなぞっていく。今、ここ。次がこれ、その次。あと何駅。
ちゃんと覚えている。
昨日の夜に何回も調べた。ポケットの中にはメモが入っている。乗り換えの駅名。何番出口か。そこからどっちへ歩くか。
もう見なくても言えるくらい覚えたのに、指先で紙の端を触ると落ち着いた。
電車が揺れる。つり革がかすかに鳴る。誰かのイヤホンから漏れる音。広告のすみが、ばたばた揺れている。
薄く窓ガラスに映った自分の顔が見えた。
少し顔がこわばっている。笑ったほうがいいのかな、と思って口を動かしてみる。
へんな顔になって、やめた。
別にだれも見ていない。そう思う。
それでも、胸はずっと速く鳴っていた。
誰かが、追いかけてきそうで。怖い。
お父さんが、警察に言ったかもしれない。
もし降りる駅を間違えたらどうしよう。
考えれば考えるほど、息がしにくくなる気がした。
順番どおり。順番どおりにやれば大丈夫。電車が駅を過ぎると、駅には人がたくさん見えた。
怖いけど、それでも、進んでいる。
ちゃんとひとりで、ぼくは大阪へ向かっている。
それが、どんどんうれしくなっていった。




