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4.DAY8 十月六日(月) 奈良県橿原市

 その夜、二人は仕事帰りに待ち合わせて、隼矢のアパートに来ていた。

「うわ、めっちゃ暑くない?」

 明日奈はそう言いながらコンビニ袋をテーブルに置いた。

「パスタでも作ろうかと思ったけど、材料買うの面倒でやめた」

「結局コンビニかよ」

「いいじゃないの。文明最高」

 そう笑ったあと、明日奈はこめかみを押さえた。薬で抑えていた頭痛が、またじわじわと戻ってきている。

「ごめん、ちょっと水もらう」

 キッチンで薬を飲み干す。隣室から、どん、と何か落とした音がした。

「相変わらず壁うっす」

「だろ?」

 隼矢が笑う。

「でも、もうすぐ出るつもり」

「え?」

 明日奈が振り返ると、隼矢は少しためらうように頭をかいた。

「正式採用の話受けた。この一月から」

 一瞬、明日奈は止まった。

 それから、ぱっと顔を明るくする。

「え、すごいやん!」

 思わず立ち上がって拍手する。隼矢が苦笑した。

「いや、そんな大げさな」

「だって、ずっと頑張ってたし」

 そう言いながら、明日奈はふと思う。

 ——小説、やめるんや。

 でもその言葉は飲み込んだ。

 隼矢の方から言った。

「新人賞、だめだったし」

「あー……そっか」

「今回は結構自信あったんやけどな」

 隼矢は笑っている。でも、その笑い方を、明日奈は知っていた。

 ほんとは結構へこんでるときの顔だ。

「まあ、でも踏ん切りがついたわ。いつまでも夢追っかけててもな」

「いや、それ言うと、なんか急に三十五歳のおっさんみたい」

「うるせえ」

 二人で笑う。その笑いのあと、一瞬だけ静かになった。

 隼矢はビールを取りに冷蔵庫を開ける。テレビをつけると、また失踪事件のニュースだった。

「まだ見つかってないんだ」

 ニュースキャスターが、先週の女児失踪事件を伝えていた。あの彗星の日に起きた事件だ。

 登校したはずの小学六年生の少女が、そのまま行方をくらませた。警察も消防団も連日捜索しているが、八日たった今も手がかりはない。

 元刑事とかいうへんに偉そうなのが、事件の説明をしている。

《朝、母親が車で澪さんを学校まで送っていったのが八時前、澪さんは学校前のバス停でおりて、そこからは歩いて学校へ向かったと言います。しかし、学校に登校した形跡はみられません。その十分後に父親が出勤のため同じ道を通っていますが、父親は澪さんを見ていません。

 バス停は、学校のすぐ前です。ここから澪さんはどのように……》

 なんか嫌な感じや。

 確かな事実でもないこと、適当にしゃべって、それになんの意味があるっていうのやろ。

明日奈は、テレビのチャンネルを歌番組に変えた。

「今の、実家に近いとこ」

「え、そうなん?」

「うん。母さんが、マスコミうっとしいってキレてた」

 隼矢が苦笑する。

「どこもこればっかやもんな」

 明日奈は、ぼんやり画面を見ながら言った。

「……あそこの弟くん、見たことある」

「弟いたんだ」

「春に実家帰ったとき。下校途中でね。三人くらいの男子が、その子の背中に石投げてた」

 隼矢が眉をひそめた。

「うわ、ひでえ」

「わたし、普通にどなったもん。『何してんの!』って」

「明日奈、そういうの躊躇なさそう」

「いや、でもさ」

 明日奈は少し眉を下げる。

「あの子まで逃げちゃって」

 そのときのことを思い出す。

 細い背中。こっちを見た、妙に静かな目。

「……なんか、助けられるの、慣れてない感じやった」

 隼矢はビールをひと口飲む。

「いじめ、なくならんなあ」

「ほんまに」

「大人があれだしな。ご立派な大人が多いから」

「やだやだ。自分の子には、ちゃんと教えたいな」

 言った瞬間、明日奈は「あ」と思った。ふだん、そういう話題は避けている。結婚とか、子どもとか。

 隼矢は気づかないふうでビールを飲んでいた。

 そのことが、少しだけありがたくて、少しだけ寂しかった。

 あの子は今、どうしているんだろう。

「ネットじゃ親が悪いとか学校が悪いとか、好き勝手やな」

「無責任だよね」言いながら、明日奈は思う。

 自分だって、何も知らないくせに、勝手に思っているだけなのかもしれない。

 ビールをひと口飲んだせいか、頭痛がまた強くなった。

「ごめん、やっぱ今日帰るわ」

「大丈夫か?」

「んー、ちょっと頭痛。寝たら治るやつ」

 明日奈はできるだけ軽く言って笑った。

 隼矢は納得していない顔だったが、「送る」と言った。

 夜風が頬に気持ち良かった。駅までの道を、二人でゆっくり歩く。隼矢は仕事の愚痴を話して、そのあと、新しく住もうと思っている部屋の話をした。

「今よりは広い。たぶん」

「たぶんって何」

「まだ内見してない」

「適当すぎるやろ」

 明日奈は笑った。ちゃんと笑えているはずだった。なのに途中から、隼矢の声が少し遠く感じた。

頭痛のせいか、それとも別の何かか。

 改札前で立ち止まる。

「じゃ、また連絡する」

「おう。ちゃんと寝ろよ」

「おやすみー」

 軽く手を振って別れる。

 隼矢が見えなくなったあと、明日奈はゆっくり息を吐いた。

 また今日も、言えなかった。

 手術のこと。

 どうして言えないんだろ。信用してないわけじゃない。むしろ逆だ。たぶん、隼矢なら受け止めてくれる。

 でも、それが怖かった。

 ——右目を失うかもしれない。

 その言葉を口にした瞬間、自分が本当に〝そういう人〟になってしまう気がした。

 今日聞いた二度目の検査結果でも、腫瘍が悪性かどうかは断定できなかった。場所が悪い。手術で細胞を採らなければ、はっきりしたことはわからないという。

 ただ、このままなら視力への影響は避けられない。そして十五日の診察までに、手術を受けるか決めなければならなかった。これ以上大きくなれば、手術そのものが難しくなる可能性もある。

 診察の最後、榊原医師はいつになく強い口調で言った。

「普通ここまで申しません。でも今回は、できるだけ早い決断を勧めます」

 静かな声だった。けれど、その静けさが、かえって怖かった。

「摘出できれば、命の危険は確実に下がります。ただし……視力を失う可能性は高い」

 右目か、命か。

 その言葉が、まだ胸の奥に引っかかっている。

 明日奈は駅の人波の中で立ち止まった。

 足が、動かなかった。

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 彗星を見た一週間後。隼矢と明日奈、ふたりの生活に変化が起き始めている。ふたりでいても孤独を感じてしまう明日奈がいる。
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