3.DAY1 九月二十九日(月) 奈良県山添村
隼矢は、手に持ったコーヒーのストローを口にくわえたまま、ぼんやりと空を見上げた。
今夜は雲がほとんどない。大気の揺らぎもほとんどなく、空全体が息をひそめているみたいだった。乾いた空気のせいか、離れた場所の笑い声まで、やけにはっきり聞こえる。星々はいつもより近く、鋭かった。
山添の高原、その見晴らしのよい山腹には、壮大な天体ショーを見ようと大勢の人が集まっていた。昼は羊やヤギが草を食む斜面に、今は無数の人影が点々と散らばっている。レジャーシートや寝転ぶ者、キャンプ椅子に腰かける者、みんな同じ空を見上げながら、どこか浮足立っていた
東の空を埋めるのは《亡霊彗星》。
満月の四倍はあろうかとういう白銀の塊が、夜そのもののように貼りついている。
それは星のような球ではなかった。中心には黒い穴のような虚ろがあり、その周囲を淡い銀の光がぼんやり取り巻いている。その輪郭は絶えず脈打ち、明滅していた。端が先に明るくなり、わずかに遅れて中心が追いつく。ほんのわずかなズレなのに、見ているだけで妙に落ち着かなかった。
「……なあ、あれさ」
隼矢が空を指した。
「中心、遅れて光ってるよな」
隣に寝転んでいた明日奈も目を細める。
「あー……わかる。なんか気持ち悪いね」
やっぱり見間違いじゃない。
そして、尾。
それは異様なまでに長く、東の地平から天頂を超え、反対側の地平へと空を真っ二つに裂いていた。巨大な筆で夜空に一本、光の線を引いたようだった。
よく見れば、その帯は青白い光と黒い影が絡みあい二重の筋になっている。光なのに、影がある。
風もないのに、それは揺れていた。波とも風とも違う、不規則で、それでいてどこか生き物じみた揺れだった。
まるで、空そのものが脈打っているみたいだった。
今夜の夜空は澄んでいる。まるで宇宙そのものを直接見ているような不思議な感覚に襲われ、ずっと空を見上げていると、平衡感覚がおかしくなってくる。
「……すご」
明日奈が、小さくつぶやく。
「ちょっと怖いくらい」
隼矢がそう返すと、明日奈は少し笑った。でも、その笑みはすぐ消えた。
隼矢は隣で寝転ぶ明日奈をちらりと見る。大学で出会った頃とほとんど変わらない横顔だった。七年も一緒にいるのに、ときどき最初に見た日のことを思い出す。
よく笑って、よく食べて、思ったことすぐ口にする。陸上部あがりらしく妙に行動が速くて、でも落ち込んでる人を放っておけない。そいうところに、いつのまにか引っ張られていた。
隼矢はストローを噛みながら、空を見上げる。
小学校の図書室で読んだファンタジーに憧れて、いつの間にか小説家になる夢を持ち続けた。それが高じて、大学事務の臨時職員をやりながら書き続けている。でも社会人になって五年。最近は、自分の書くもの全部、誰にも届かない紙くずみたいに思えることがあった。
そんなとき、正式採用の話が来た。親にも「いい加減ちゃんとしろ」と言われ続けている。
返事は今週中。ちょうど春に応募した新人賞の結果も、今月末に出る。久しぶりに最終選考まで残った。
——これで決めよう。
そう思っていた。もしだめなら、そろそろ潮時かもしれない。
正式採用のことは、まだ明日奈には言っていない。七年付き合って、そろそろちゃんと先を考えるべきだとも思う。でも正式職員になれば、今みたいには書けなくなる。夜遅くまで残業してる先輩たちの顔を思い出す。みんな疲れていた。発表は明日、三十日。今日もずっとスマホを気にしていたが、連絡はなかった。
明日、もし落ちてたら——。
そこまで考えて、隼矢はやめた。
隣を見る。
明日奈は、じっと彗星を見上げていた。けれど、どこか上の空だった。普段なら「うわ、写真撮ろ!」とか「なんかラスボス出てきそう」とか、そういうことを言うはずなのに、今日は静かだった。
明日奈は彗星を見ながら、別のことを考えていた。
白銀の光が視界いっぱいに広がる。ほんとうに、空から落ちてきそうだった。
周囲では、若者たちが騒いでいる。隣のカップルは写真を撮り合い、少し離れた家族連れは「一生に一度やな」と何度も言っていた。今夜はきっと、世界中の人が同じ空を見上げている。
なのに、明日奈の頭の中は、ずっと同じところを回っていた。
——なんで、わたし? ……しかも、今なん。
今日は昼から休みをとって、奈良の医大病院へ行っていた。二か月ほど前から頭痛が続いていた。ときどき視界も霞む。でも、新しく任された店のことで頭がいっぱいで、疲れのせいだと思っていた。やっと時間をつくって眼科へ行った。そこで脳腫瘍の疑いを指摘され、医大病院を紹介された。
そして、今日。
精密検査の結果、右目の視神経の近くに腫瘍が見つかった。悪性かどうかは、まだわからない。医師は淡々と説明した。良性でも視力を失う可能性があること。悪性なら命に関わること。言葉だけが頭を通り過ぎて、現実感がなかった。七月、ようやく店長を任されたばかりだった。新ブランドとの契約も、自分で取った。ここで長く抜ければ、全部ほかの人の実績になる。
やっとここまで来たのに。どうして今なん。
来週、もう一度検査をする。「それを見て判断しましょう」と、医師は言った。
悪性。失明。手術。
言葉だけが頭の中でぐるぐる回る。今夜の約束も断ろうかと思った。でも、一人でいるのが怖かった。
隼矢に相談しようとも思った。
けれど、考えれば考えるほど言えなくなった。隼矢に話したら、もう後戻りできなる気がした。
——手術しなくても大丈夫かもしれない。
そんな希望を、自分で捨てることになる気がした。
明日奈はぎゅっと膝を抱える。普段ほとんど神頼みなんてしないのに、今日は心の中で何度も願っていた。どうか、悪性じゃありませんように。
いつもの隼矢なら、本当はすぐ異変に気付いて声をかけただろう。でも今夜は、隼矢も自分のことで精一杯だった。
二人は並んで寝転びながら、違う不安を抱えたまま、巨大な彗星を見上げていた。
そのとき、どこかで誰かが打ち上げたロケット花火が、夜空を裂くような音を立てた。
ヒュッ——パンッ。
乾いた破裂音に、明日奈は小さく肩を震わせた。




