2.DAY1 九月二十九日(月) 奈良県桜井市
九月二十九日、今日、姉ちゃんがいなくなった。
ぼくは四年生で、澪姉ちゃんは六年生だ。
姉ちゃんは六年生になってから、ずっと機嫌が悪かった。学校であっても知らん顔をする。去年までは、ぼくを気にかけてくれて、ときにはいじめから守ってくれたこともあったのに。
今朝も姉ちゃんは、学校へ行きたくないとぐずっていた。また、お母さんが車で送っていくことになる。
最近の姉ちゃんは、なにかが切れてしまったみたいに母さんに反抗して暴れることが増えている。
だからぼくは、ふたりの怒鳴り声を聞かなくてすむように、毎朝お決まりの、いちごジャムをたっぷりぬったパンを食べ、温めたミルクを飲みほすと七時三十五分ちょうどに家を出る。
今朝も、そうした。ちゃんといつもどおりに。
なのに——
今日、学校から急いで帰ってくると、いつもいるおばあちゃんがいなかった。
おばあちゃんは、今年の二月に弟の大樹が生まれてから、毎日来て夕食の準備をしてくれる。
でも、今日、家には、お母さんと大樹だけ。お母さんは、大樹のベッドの横で眠っていた。
ぼくは、静かに二階へ上がり、すぐにパソコンをつける。
画面がなかなか立ち上がらなくて、早く早くと思う。
やっと立ち上がったパソコンの画面。すぐにお気に入りのサイトをクリックする。
ぼくが今、何よりも知りたいのは、五日前に見つかった彗星、C/203XQ13。三日前から肉眼でも見えるようになって、新しい情報が出るたびに、ぼくはどきどきした。彗星のことを調べていると時間なんてすぐにたってしまう。
気づくと、部屋が暗くなっていて、時計の針が六時を過ぎていた。
いつもなら、とっくに姉ちゃんが「夕飯の準備を手伝って」と呼びに来る時間だ。
夕飯はおばあちゃんが作ってくれるが、夕方には帰るので、準備はおねえちゃんとぼくの役目だった。
お腹がすいたぼくは下へ降りた。
家は薄暗く、灯りもついていない。大樹の泣く声がしたので母さんの部屋をのぞくと、母さんが窓辺に座って空を見ていた。
ぼくに気づいて、ぼんやりした顔のまま言った。
「今夜は咲良の好きな星が来る日よね。だから、ピザ頼んだから、食べて」
そう言うと、母さんはまた窓の外の空を見上げた。
ぼくはうれしくなった。今夜はC/203XQ13最接近の日なのだ。
正式名C/203X Q13。六日前、太陽の向こう側から突然現れたこの彗星。地球にぶつかるんじゃないかって大騒ぎになったけど、専門家たちが、「約三百二十万キロ離れて通過するから大丈夫」と何度も説明して、ようやくみんなは落ち着いた。テレビでは、世紀の天体ショーをどう楽しむか、そんな話ばかりしている。でも、本当にすごいのはそこじゃない。この彗星は、それまでどこにいたのか、誰にもわからないんだ。世界中の天文台が軌道を逆算しても、どこにもつながらない。まるで、宇宙のどこかから落ちてきたみたいに。しかも秒速二百六十キロ。普通の彗星の何倍も速い。そんなのありえない。それを考えると、ぼくはわくわくして眠れなくなる。
でも、学校では、天文の話はできない。
一度だけ、クラスのみんなが、彗星が地球にぶつかると騒いでいたので、ぼくは教えてあげた。
まず名前は正式にはC/203X Q13ということ。それから、地球との正確な距離は約三百二十万キロメートルで、衝突の可能性はかなり低いこと。ちゃんと説明すれば、みんな安心すると思った。
でも、話し終わる前に、後ろの席の嘉月が笑った。
「うわ、また始まった」
それで何人かも笑った。
「誰もそこまで聞いてへんし」
「きも」
小さい声だったけど、ちゃんと聞こえた。
ぼくは、そこでやめた。黒板の上の時計を見るふりをして、自分の席に戻った。その日の帰り、筆箱を開けたら、中の鉛筆がぜんぶ逆向きに並べかえられていた。
なんでそんなことをするのか、ぼくにはわからなかった。ただ、一本ずつ向きをそろえ直していると、となりの席の子がくすくす笑っていた。そのとき、母さんや姉ちゃんに言われたことを思い出した。
「あんたは空気を読めないんやから、あんまり喋らんほうがいい」
たぶん、その通りなんだと思う。
だからC/203X Q13のことは、もう学校では話さない。これは、お母さんとの約束。
ぼくはC/203X Q13の軌道計算のやり方を頭にうかべる。
そうすると、頭の中が静かになる。
その最接近が、今夜十一時三分。
ぼくは、ピザをほおばりながら空を見上げる時間を想像してみた。
そのとき、家の電話が鳴った。
出ると、姉ちゃんの担任の前坂先生だった。母さんに受話器を渡す。
先生は、何度も何度も謝っているみたいだった。
話を終えた、母さんが、ぽつりと言った。
「咲良……澪が今日、学校に来てないって」
それからは、急に台風の中に放り込まれたみたいだった。
何度もいろんな人に問い詰められたけど、ぼくには何がなんだかわからなかった。
父さんは仕事から戻るとすぐに出ていった。おばあちゃんも来た。大樹は泣き続けた。
九時を過ぎるころ、父さんは警察に電話した。
そのあと警察の人も来て、家じゅうがざわざわした。大きな声でしゃべる声と大樹の泣き声がいっぺんに耳に入ってくる。頭の奥で、アルミホイルをぐしゃぐしゃに丸めるみたいな音がした。ぼくは机の下に潜って耳をふさぐ。
どのくらいたったかわからないころ、おばあちゃんが温めなおしたピザを持ってきた。
「心配せんでええ。あんたは寝なさい」
いつもよりずっと優しい声だった。
ぼくはしばらく、冷めていくピザを見ていた。
クリスマスに、家族みんなでピザを食べたのを思い出した。やっとひとくち食べたピザはチーズが固くて、あのときとはぜんぜん違う。
ピザを食べながら窓の外を見た。隣の家では、庭でバーベキューをしている。明るくて、笑っていて、別世界みたいだった。
大学生のお姉さんが、立ち上がって空を見た。
ぼくも見上げる。
そこに、C/203X Q13があった。
月の四倍はありそうな巨大な光の塊。なのに中心だけが、淡く黒くにじんでいる。そこから伸びる白銀の尾は、夜空にできた裂け目みたいだった。
ほんとうなら、こういうとき、澪姉ちゃんを呼ぶ。
姉ちゃんは天文になんか興味がないくせに、ぼくが騒ぐと、しかたなさそうについてきて、
「どこが、どうすごいん」と笑う。
ぼくが一生懸命説明すると、途中からぜんぜん聞いていないくせに、最後だけ「へえ、そらすごいな」と言う。
でも今日はいない。
そのことを思い出した瞬間、C/203X Q13の黒い中心が、誰かが口を開けているみたいに見えた。
のどの奥で固くなったピザが、どうしても下へ落ちなかった。
ぼくは噛むのをやめて、ただ空を見上げていた。




