13.DAY25 十月二十三日(木) 大阪府東大阪市
老人は、足を引きずりながら歩いていた。
暴漢に襲われて、逃げようとした時にガラスで足の裏を切ってしまった。
さっきの暴漢たちが言っていたことが、耳に残っていた。
奴らも、あの二人を探していた。
その一人が気になることを言った。
「おっさん見つけたら絶対教えろよ。分け前ぐらいちゃんとやるからよ」
男たちの笑い声が耳に残る。
一億。
老人はその数字を頭の中で繰り返した。
一億あれば——。
もう空き缶拾わなくていい。腹を空かせることもない。食い物の心配もしなくていい。
手に提げていた空き缶の袋が、急にひどく重たく感じた。
老人はゆっくりと手を離した。袋が地面に落ちる。
「世界も終わるいうのにな……」
そう呟いた声は、自分でも驚くほど寂しく聞こえた。
*
明日奈と咲良の二人は、食べる物を探していた。
今日はまともな物を口にしていない。
店はどこも閉まっていて、あちこちで略奪された店を目にした。
もう警察なんて役にたっていない。だれも何も期待していなかった。
コンビニを見つけた。
近寄ると、そこも襲われたあとらしく。ガラスが割れ、誰もいなかった。
「なんか残ってないか見てみよ」そう言って、二人で足を踏み入れる。
中は薄暗く、歩くたびにガラスの破片がこすれる音がした。
棚は全部空っぽで、コーヒーの機械がひっくり返り、ちぎれた袋や、食品のかけらがころがっている。
明日奈は、レジの奥の厨房の方をのぞいてみる。
と、突然。誰かが店に入ってきた。
明日奈が、とっさに身を隠そうとすると、
「おう、おまえら無事みたいやな」と声がした。
そのかすれた声は、橋の下のおっちゃん。
「どうしたの?」
声を聞いて出て来た咲良と、おっちゃんを迎える。
「ああ、空き缶、けっきょくもう売れんからな。なんか食べるもん探して、あっちこっちな」
「そうやったんや。わたしらもや。ここの店もなんもなくなってるわ。厳しいな」
「そやな、もうちゃんと店やってるとこは、ここらにはないかもな」
明日奈は、おっちゃんが足をひきずっているのに気づいた。
「どうしたん? 足」
「いや、ガラス踏んでな」
「ちょっとみせてみ」
そう言って、明日奈はおっちゃんの足をみる。すりきれた靴は穴があき、血に染まっていた。
「そんな深い傷ちゃうけど、足の裏や、痛いやろ」
明日奈は、自分のハンカチを裂いて巻いた。
「こんなんで悪いけど」
おっちゃんは何も答えなかった。
――もう何年も。こんなふうに自分の足を気遣われたことがなかった。
おっちゃんは、ただ黙って巻かれていく白い布を見ていた。
そして、何かをふんぎるように、つっけんどんに言った。
「すまんが、頼まれついでや。姉ちゃん、ちょっとだけ携帯、貸してくれんか。この近くでやってる店探したいんや」
明日奈は、携帯の充電が気になって自分でも使わないようにしていたが、ニコリと笑って、「充電心配やから、ちょっとやで」と言って渡した。
「そんなん、ここやったら、ケーブルもあるやろ。食べ物は盗られても、そういうのは残っとるもんや」
「そっか、咲良、使える物、探そ」
そう言って、近くの商品棚の下に落ちて踏みつけられているものを探し始めた。
用が終わったおっちゃんも加わり、三人は、まだ使えるものがないか、しばらく探した。
携帯のケーブルはあった。だが、店の電源は使えなかった。停電してるみたいだ。
がれきの下から、お茶のペットボトルを四本も見つけた。
明日奈が、レジに千円札を置いて、三人は店を出ようとした。
その時、店の前が急に騒がしくなる。
のぞくと、車が二台。停まり、中から白服が降りてきている。
どうしよ。
三人は、身を隠した。
このまま行き過ぎてくれたら……。
その願いもむなしく、白服たちは、店の周りを囲むようにして、近づいてくる。
だが、すぐには来ない。誰かを待っているのか。
どうしたらいい?
明日奈は、唇をかんで、すぐそばで同じように身を固くしている咲良を見た。
すると、おっちゃんが動いた。
「わしが、話ししてくる……。そしたらすきができるかもしれん」
そう言って、おっちゃんは、明日奈が止めるのもきかず、足をひきずって店の外へ足を踏み出した。
おっちゃんは、白服の男に何かを言われた。
少し考えるようにうつむく。
そして。
差し出された札束を受け取った。
その瞬間。明日奈の顔から血の気が引いた。
おっちゃんは一度も振り返らなかった。札束のつまった鞄を持ったまま、ゆっくりと歩き去っていく。
その背中がひどく遠く見えた。
明日奈の顔が驚きから苦痛のゆがみにかわる。
「おっちゃん、どうしちゃったの?」
咲良が、そう聞いても、明日奈には答えられなかった。
男たちは周囲を取り囲んだままでいた。
何もできず、ただ待つだけの恐怖で、のどがカラカラに乾いた。
やがて、車が一台現れた。乱暴な急ブレーキ。
車から、男が出てきた。
明日奈は、その男の鼻を見て、残っていた最後の勇気が消えていくのを感じた。
*
老人は、とぼとぼ歩いていた。
右手には札束のつまった鞄。
生まれて初めて見る大金だった。重い。だが、その重さは紙の重さではなかった。
老人は一度立ち止まり、震える指で札束をめくった。
本物だった。何枚あるかもわからない。
ただ、自分が一生かかっても稼げない金だということだけはわかった。
「一億か……」
乾いた笑いが漏れた。
空き缶を拾って、橋の下で寝て。寒さに震えて。腹を空かせて。
そんな毎日を何年続けてきただろう。
もし世界が終わらないなら。もし、あと十年でも生きるなら。
この金は人生を変えたかもしれない。
老人は歩きながら想像した。
温かい布団。毎日三度の飯。風呂。風の当たらない部屋。
そのどれもが、自分には縁のないものだった。
「最期ぐらい、ええ思いしても罰はあたらんやろ……」
そう呟いてみる。
だが言葉はひどく空しかった。
ふと、橋の下で震えていた子どもの顔が浮かぶ。
咲良といった。あの子はまだ子どもだ。
あんな歳で追い回されて。怯えた目で必死に隠れていた。
「知らん」
老人は首を振った。
「わしには関係ない」
そう言った。
だが足は止まる。胸の奥がざわついた。
関係ない。
その言葉を、自分は何度使っただろう。
妻が泣いたときも。娘が泣いたときも。
関係ない。面倒や。好きにしろ。
そう言って逃げた。
結局、残ったのは橋の下だけだった。
老人は握った札束を見る。
その時だった。
足に巻かれた布が目に入った。
白いハンカチ。血で汚れている。
乱暴にはがそうとして、その手が止まった。
刺繍。小さなキャラクター。
見覚えがあった。老人の呼吸が止まる。
遠い昔。泣きながら自分に向かって投げつけられた小さなぬいぐるみ。そのキャラクターだった。
「父さんなんか嫌い!」
あの日の声が耳によみがえる。
小さな娘だった。まだ六歳だった。老人はその時、何も言わずに家を出た。
娘は泣いていた。追いかけても来た。それでも振り返らなかった。
老人はハンカチを強く握った。目の奥が熱い。
「なんや……」かすれた声が漏れる。
「今さらやないか」
娘はもう大人になっているはずだった。会えるわけなんかない。許されるわけもない。
それでも。
それでも今ここであの二人売ったら。自分は最後まで同じ人間のままだ。
老人はゆっくり空を見上げた。
終わりかけた世界の空は、妙に青かった。
「やっぱりあかんわ」
そう言って笑う。
「死ぬ時くらい、まともな人間になっとこか」
老人は泣きそうな、その顔をまっすぐ上げた。
*
鼻の男が、車の後ろドアを開けると、もう一人、男が降りてきた。
恰幅のある男は、他の白服とは違う派手な飾りをつけ、顔には怒ったようにクマが描かれている。
男は黙って腕組をし、うすら笑いを浮かべていた。
鼻の男が、一歩前へ進み、声をあげる。
「おーい、お嬢ちゃん。もう出てこいや」
鼻の男の合図で、周りにいた男たちが一斉に動き出した。
店の一番奥に隠れていた明日奈は、咲良の肩を抱いて、目をつむる。
店に入ってきた男たちが、店の棚を派手な音をたてて壊しながら、こちらへ迫る。
もう、だめや。……隼矢。
隼矢の笑顔が、頭に浮かんだ。
そのときだ。
表のガラスが爆発したように砕けた。車が店内へ突っ込んでくる。
棚をなぎ倒し、コンクリート片をまき散らしながら、奥の壁へ激突した。
砂煙の中、車から声がする
「逃げるぞ!」
おっちゃんだ。
アクセルをふかすが、タイヤが激しく空回りして動かない。
店内は男たちのうめき声がするだけで、立ち上がってくる者はいなかった。
座席にあった傘を手に降りてきたおっちゃんは、二人の手をひいて店を出た。
店の外には、まだ、鼻の男と、もう一人がいた。
「はやく走れ!」
おっちゃんは、そう言って、こちらに向かってくる鼻の男を迎えうとうと傘を振り回す。
明日奈と咲良は、反対へ向かって、走った。
背後で、パンッ! と銃声がした。
振り返ると、おっちゃんの身体がぐらりと揺れた。
傘が手から離れる。そのまま膝をつき、道路へ倒れこんだ。
明日奈は咲良の手をとり、全力で逃げた。
——どのくらい走っただろう。
角をいくつも曲がって、二人は、路地裏の建物の隙間に身を潜めていた。
足をケガしていた鼻の男は、なんとか振り切ることができた。
「おっちゃん、大丈夫かな……」
咲良が、不安そうに口にする。明日奈は無理やり笑って、
「うん、おっちゃん、しぶとそうやったし。うまく逃げてるて」
そう言ったものの、笑顔はすぐにくずれてしまう。
あかん、今はまず逃げること考えよう。逃がしてくれた、おっちゃんのためにも。
「行こか」そう言って、咲良の肩に手をのせた。
「うん」咲良はうなずき、二人はゆっくりと歩き出した。
*
車が走り去ったのを確かめて、老人はあたりをうかがいながら立ち上がった。
「いててっ、ほんまに危なかったわ。いちかばちか、わしの勝ちやったな」
老人は、そう言って作業着をまくりあげて、腹を出す。
そこには、溝を蓋する鉄板が巻かていた。さらに、下には雑誌。
「これだけやってても、息が止まったわ。銃で撃たれるやなんて、まあ、生きてるもんやな」
老人は、小さく笑って、赤くなっている自分の腹をたたいた。
「しかし、ほんま助かった……、やっぱええことするもんやな」
老人はどっちへ行こうか少し迷って、東に歩き出した。
「もう、あそこには帰れんな――」
老人は空を見上げた。終わる世界の空は、妙に青かった。
「まあ……ええか」
小さく笑う。足は痛かったが、不思議と心は軽かった。




