14.DAY26 十月二十四日(金) 生駒山
窓から天守閣を見上げながら、斑木はいらいらとたばこをふかした。
——身体がやけに重い。指先まで鉛でも詰め込まれたみたいだ。
昨日の酒か。それとも――。
斑木はその考えを無理やり振り払った。
斑木は、そのいらだちを目の前の男にぶつけた。
「おい、鼻よお。たかが女一人におまえらどんだけ手間かけてんだ」
目の前の大きな花瓶を持ち上げると、男に投げつけた。
男は避けなかった。
花瓶は腹にぶつかり、鋭い音を立てて砕け散る。
避ければもっと酷いことになる。
押し黙ったままの男に、斑木は顔をすがめて言った。
「絶対あいつを連れてくるんだ。俺のこの顔に傷つけた代償がどれだけ大きいか、見せてやる。わかったな」
斑木の頬にあるかすり傷は、車の暴走をよけたときにできたものだった。
「あいつを連れてくるまで、俺の前に顔を見せるな。わかったな。
……そうだ、お前、犬飼ってるって言ってたよな。
もし、今度失敗しやがったら、その犬でホットドック作ってお前に食わしてやるよ。本物のホットドックだぜ。笑えるだろ」
部屋を出た〝鼻〟は、この男にしては珍しく、その顔に表情を見せた。
そのまま、待機部屋に戻ると、無表情でペットボトルの箱から一本抜き出す。
そして、それに注射針を使って器用に細工をした。
これまでもよく使った手だ。ボスの命令で相手を眠らせる。やり慣れた手順だった。
ただ、今回は眠り薬ではなく、ねずみの殺傷剤を入れた。
——俺はばかだから、俺が殴られるのはいい。
だが、俺の犬はだめだ。
あいつだけは守らないと……。ボスから守らないと。
ボスの怖さはよく知っている。だからこそ守る必要があった。
男は、そのペットボトルを、斑木の部屋の前室にある彼専用の冷蔵庫に入れて、またつぶやいた。
「犬だけは守ってやらないと……」
*
明日奈たちは、自転車を手に入れ、二人で阪奈道路を走っていた。
片側二車線の阪奈道路は、まっすぐ山に伸びている。
道路上には車やトラックが何台も捨てられ連なっている。みんな逃げようとして動けなくなったなれの果てだ。
ときどき歩いている人もいるが、明日奈たちは、帽子を深くかぶり、マスクで顔を隠してやり過ごした。
今日は、一日かけてなんとか生駒山のふもとまで来た。
夕日を背に、二人は上り坂を登っていた。
「咲良、大丈夫? ちょっと休もうか」
汗をかき、真っ赤な顔の咲良を見て、明日奈は声をかけた。
「よし、このへんで一回休憩」
二人は道端に座り込み、一息ついた。
明日奈は、携帯を出し、SNSをチェックする。電話は何度かけてもどこにもつながらなかった。ネットはかろうじて、つながる時がある。
隼矢とは、SNSを通じて最低限のやりとりはできていた。
が、今日はそれも難しくなっている。朝送ったのだって、届いているかどうかもわからない。
今も、まだ既読がついていない。
「隼矢、どこにおるんよ~」
「そのお兄ちゃん、布施にいるの?」
「夜通し歩いて、布施でとまってるみたい。もうネットも全然つながらんし、今頃どうしてるか」
ふと、学生時代に隼矢にバイクに乗せてもらってドライブしたことがあったのを思い出した。
そや、車は動かんけど、バイクやったら移動も速い。
……でも、隼矢って、ちょっと融通きかへんとこあるからな。そんなことできるかな。
そう思って明日奈は、ひとり苦笑いをうかべる。
「ここからどうするの?」咲良が、顔を帽子であおぎながら聞く。
「今夜をどこで過ごすかやけど。もうちょっと行ったら生駒山トンネルになるはずやから、そこがええかなと思う。人の多いとこは避けたいからさ、街中はやめとこ。隼矢には、さっき、『生駒トンネルや』って送っといたけど。これも届くかどうかわからへんしな」
ここまで、追っ手には、まだ出会っていない。だが、自分たちに一億の賞金がかけられていたのを知ってからは、もうすべての人が信じられなかった。
「もうちょっとや。頑張ろか」
そう言って二人は、自転車を押して歩きだした。
そのとき、後ろから声がした。
「お~い!」
明日奈は、びくりとして振り返る。
誰かが手をふりながらやってくる。ちょうど夕陽と重なって顔が見えなかった。
でも、その声は知っている声だった。
「おっちゃん!」咲良が、嬉しそうに手を振り返す。
捨てられた車の間を、よたよたと歩いてやってきたのは、おっちゃんだった。
「おっちゃん……良かった。ほんまにおっちゃんや」
明日奈の目には涙が溢れていた。
「大丈夫やったの?」
おっちゃんは照れくさそうに、
「ああ、なんとかな。ラッキーやった」
「ラッキーって、ケガしてないん?」
おっちゃんが、鉄板の話を自慢げにするのを咲良は、にこにこして聞いていた。
「それでな、わしも大阪に、おさらばや」
おっちゃんは、笑ってそう言った。
「そんな顔できるんや」
明日奈の言葉に、おっちゃんは頭をかいた。そして、言いにくそうに下をむき、
「すまんかったな」と消えそうな声で言った。
「なに言うてんの。ありがとう言うんはわたしらや。おっちゃん、ありがと」
明日奈の言葉で、顔をあげたおっちゃんは、大きなリュックをおろすと、中からジュースを二本出した。
「おみやげや」
咲良が喜んで、さっそく飲みだす。
「どや、わしでよかったら奈良までボディガードになったるで」
「ほんま、一緒に行ってくれるの?」
「ああ、姉ちゃんさえよければやけど……」
自信なさげにそういうおっちゃんを見て、明日奈はにこりと笑った。
「こんな頼もしいボディガードおったら、安心やな、咲良」
「うん」と咲良も笑った。
「なあ、おっちゃん、おみやげに食べるもんはなかったん?」
そう言われて、おっちゃんは嬉しそうに「あるぞ」と魔法のリュックから、パンを取り出してきた。
「おっちゃん、身体の方はほんまに大丈夫?」と明日奈が聞くと、
おっちゃんは、右足をあげてみせた。
「見てみ、足の傷もな、もう治ってしもたんや。ただ、今朝から身体、すぐに疲れてしんどいけどな。まあ、昨日から慣れんこと、いっぱいしたからな」
身体はだるそうだが、おっちゃんの顔は、昨日までとは別人のように明るかった。
明日奈も気づいていた。
今日の身体はおかしい。坂を少し登っただけで息が上がる。昨日までなら平気だったはずなのに。
終わりは、確実に近づいていた。
そう感じた明日奈は、見えない何かに耐えようと、奥歯をぐっと噛みしめた。
明日奈は、すぐに気を取り直して、
「そしたら、今日中に奈良へはいろ。行くで。おっちゃんも、ボディガードやねんから、しっかりとついて来てや」
「ボディーガードって一番前ちゃうかな」咲良がそういうのが面白かった。
三人は、笑いながら歩きだした。
生駒トンネルの中は暗く、車の墓場みたいになっていた。
二人の自転車のライトで照らしながら、慎重に進み、なんとか日が暮れきる前に、トンネルの出口までたどりついた。
三人は、捨てられた車の中で夜をあかすことにする。
明日奈と咲良で一台、近くの軽自動車におっちゃんと別れて寝る。
疲れていたのか、それとも身体がそうなのか、横になったとたん、明日奈はすぐに眠ってしまった。
ふと、明日奈は目覚める。
あたりは暗い。
腹に響くような音がしていた。
なに? ドドドッというその音は、バイクの音だった。
それも複数。後ろを見ると、トンネルの中から光が三つ見えた。
バイクが三台。車の列をぬうように近づいて来る。
明日奈の背筋が冷えた。
咲良をゆすって起こす。
二人は座席の下に隠れて、様子をうかがった。
三台のバイクは道に広がって、あたりの車をチェックしているのか、ゆっくりとしか動かない。
やはり、これは追っ手かもしれなかった。
二人は、身体の上に車内にあった荷物をのせ、その下でじっとしていた。
おっちゃんは、気づいているやろか。
先頭のバイクが、近づく。
頭を伏せて息を殺す。
バイクの排気音が、横で止まり……、そして前へ動いた。
ほっとしかけたその時、携帯が鳴った。
短い着信の音。
慌てて体の下に押し込むとき、その画面に隼矢の文字が見えた。
「隼矢のあほ」
いつ繋がるかわからないので、つい音量を大きめにしていた。
動き出したバイクが止まり、ぐるりと戻って来る。
あかん。どうしよ。
その時だ、隣の車で、騒ぎが先に起きた。
おっちゃんだ。
「なんや、おまえら、人が寝とるの邪魔すんな……」
途中でその声がとまる。
あっ、と思ったとき、明日奈は、上から覗き込むバイクの男と目があった。
バイクのライトに、曲がった大きな鼻が浮かび上がる。
その瞬間、明日奈の身体は、恐怖よりも先に反応した。
車のドアノブに手をかけると、思いっきり身体をぶつけるようにして、勢いよくドアを開けた。
ドアはバイクにぶつかり、不意打ちをくらったように、男のバイクが横倒しになる。
明日奈は咲良の手をひき、飛び出した。
走り出そうとした二人の前に、おっちゃんの方にいたバイクが回り込んで立ちふさがった。男にやけた顔で、エンジンを何度もふかして、耳を塞ぎたくなるような爆音をたてた。咲良が硬直したように動けなくなる。
そのままどうすることもできなかった。
*
隼矢は、明日奈からのメッセージを見て、自分もなんとか生駒の方へ行こうとした。
途中、乗り捨てられたバイクを見つけた。キーまでついていたが、ガス欠のようだったので、苦労して少しだけガソリンを入れることができた。
なんとか生駒にたどりついたのは、もう深夜になっていた。
しかも、生駒山の登り道でエンジンが止まってしまう。
「もう、なんてついてないんや、もうちょっとで下りやのに」
隼矢はうめきながら、バイクを押して、トンネルを進んだ。
やがて、道路が少しだけ下りになったところで、隼矢はバイクにまたがり、足でけりながらノロノロと進んでいた。
下りになったら、エンジン、もう一回かからへんか。
進んでいると、前方にバイクのエンジン音が聞こえた。
生駒トンネルに反響するバイクの音が、夜の静けさを乱暴に壊している。
近づくにつれ、様子が見えて来た。
三台のバイクが、ライトを交差させて止まっている。
その光の中に、——明日奈。明日奈がいた。
隼矢はあせって、バイクのエンジンをかけようとして、もう一度キックする。
バイクの光の中で明日奈の顔はこわばり、それがどういうピンチかすぐにわかった。
隼矢のバイクは、ゆるやかな坂道をトロトロとしか進まない。
畜生! 走れ!
隼矢は、もう一度走り掛けをしようとバイクをおりて、全力で押して走る。
トロトロとしか走らないバイクにもう一度またがり、ペダルを思いっきり蹴るが、エンジンはかからない。
もう少し。明日奈たちの姿が、目と鼻の先まで近づいた。
やつらは、自分たちのバイクの音で気づいていない。
男の手が、明日奈の肩へ伸びる。
その瞬間、隼矢は大声を出していた。
「やめろ!!」
*
明日奈たち三人は、道路の端に寄せられていた。
「姉ちゃん、もうおしまいだよ」
鼻の男が、明日奈の腕をつかもうとした。
その時、トンネルの方から声が響いた。
「やめろ!!」
鼻の男たちも、振り返る。
と、こちらに向かって来るのは、トロトロと倒れそうなスピードのバイクにまたがる男が一人。
「なんだ? あれ」と、横にいたヘルメットの男があきれたように言う。
鼻の男が、目をすがめて、
「なんでもいい、あっちもぶっとばしとけ」と吐くように言った。
隼矢のあほ。
明日奈は、今日二度目の言葉を口にした。
横の男が、隼矢の方に動こうとした。
次の瞬間。
隼矢のバイクが、獣みたいな咆哮をあげた。
突然息を吹き返したバイクの前輪が跳ね上がる。暴れ馬のように車体が跳ね、乗り手を振り落としたまま一直線に突っ込んでくる。
男たちのバイクに激しくぶつかり、そのままトラックにぶつかって止まった。
近くには、道路に放り出された、隼矢が倒れている。
「隼矢!」
思わず明日奈が叫ぶと、隼矢がなんとか起き上がった。
すぐに男たちに取り押さえられる隼矢。
隼矢の奮闘も虚しく、結局捕まったのが四人になっただけだった。
自分たちのバイクが動かなくなって、鼻の男たちは、どうするかを相談しているようだった。
明日奈の横に、ひっぱってこられた隼矢は、しおれて「すまん」と言った。
「ほんまに、あほ……、でもありがと」
明日奈は小さな声で隼矢にだけ聞こえるように言った。
その時だ。横で同じように捕らえられていた、おっちゃんの手元に、明日奈は気づいた。
手には、いつの間にかライター。
そして、おっちゃんの近くに、さっき隼矢がぶつけたバイクが倒れ、そこからガソリンが流れていた。
おっちゃんが振り返った。
明日奈と目が合う。何をしようとしているのか、一瞬でわかった。
「あかん」
そう言いたかった。けれど声にならない。
おっちゃんは笑った。ほんの少しだけ。
体の後ろで持つライター。その指に力がこもる。
ボっと小さな灯がともった。
「逃げろ!」とおっちゃんが叫んで、火が黒光りする液体に触れた。
メラッと立ち上がる青白い炎が見えた瞬間、明日奈は咲良を抱えて、少しでも離れようと走った。
背後でボンッと大きな炎があがり、次の瞬間。
ドオン! と爆発音が響く。
明日奈は咲良を抱いたまま、地面にふせた。
隼矢が明日奈をかばって、その肩を抱いていた。
次の爆発がおきるまでに離れなきゃ。
すぐ近くに、おっちゃんもいた。
「走れ!」
明日奈は、そう言って咲良の手をとり、駆けだした。
背後で、さっきより大きな爆発が起きた。
咲良は、両耳を押さえている。その身体を隼矢がすぐに引き取り、抱きかかえるようにして走った。
トラックに火が引火したのか、更に大きな爆発音。
四人は、振り返らなかった。
背後では爆発音が何度も響き続ける。
炎に照らされた生駒の山肌だけが、夜の中に赤く浮かんでいた。
ただ生きるために。
四人は暗闇へ走り続けた。




