幻影猫が守るもの
幻影猫が消えていった方向へ、ハルたちは慎重に進んでいた。
森の奥へ進むにつれて、木々の間隔が少しずつ狭くなっていく。
「幻影猫が気にしていたのは、この方向だったよな」
ハルが前方を見る。
「ええ。何度もこっちを気にしていたわ」
リリアも前方を見つめる。
「何かあるのかもしれないわね」
「もう少し探してみよう」
二人と一匹は、さらに森の奥へ進んでいく。
しばらく歩いたところで、ポチが足を止めた。
「……ポチ?」
ポチは地面を見つめている。
そして、少し先へ歩いていった。
ハルとリリアもその後を追う。
「何か見つけた?」
ハルが声をかける。
ポチは木の根元で立ち止まった。
そこには、小さな足跡が残っていた。
「これ……」
ハルがしゃがみ込む。
「幻影猫の足跡ね」
リリアが答える。
「じゃあ、ここを通ったってことか」
「あっちにもあるわ」
リリアが指を差す。
少し離れた場所にも、同じ足跡が残っている。
さらに先にも。
「これを辿っていけば……」
ハルが先へ続く足跡を見つめる。
「ええ。行きましょう」
二人と一匹は、足跡を辿るように森の奥へ進んでいく。
しばらく進むと、木々の間から小さな岩場が見えてきた。
その奥には、岩壁にできた細い隙間がある。
「……洞窟?」
ハルが呟く。
リリアも洞窟の入口へ目を向ける。
「ここで足跡が途切れてるわね」
「本当だ」
ハルが地面を見る。
さっきまで続いていた幻影猫の足跡が、洞窟の入口まで続いている。
その時だった。
洞窟の前に、何かがいることに気づいた。
「……!」
ハルが目を凝らす。
岩陰に、幻影猫が立っていた。
幻影猫もハルたちに気づいたようだった。
淡い紫色の瞳が、こちらをじっと見つめている。
「いた……」
リリアが小さく呟く。
幻影猫は一瞬だけ身構える。
そして――
すっと身体を低くした。
次の瞬間、周囲の景色に溶け込むように、その姿が消えた。
「……消えた」
ハルが目を見開く。
「洞窟の中に入ったのかしら?」
リリアが洞窟を見る。
「たぶん」
ハルは洞窟の奥へ目を向ける。
「追ってみよう」
「ああ」
二人とポチは、幻影猫が消えた洞窟の中へ進んでいく。
洞窟の中は薄暗く、外から差し込む光もすぐに届かなくなる。
「……何か聞こえない?」
リリアが足を止める。
ハルも耳を澄ます。
かすかな鳴き声が聞こえた。
「……鳴き声?」
ハルが小声で呟く。
ポチが耳を立てる。
そして、洞窟の奥へ向かって歩き出した。
「ポチ、待て」
ハルも後を追う。
少し進んだ先。
そこには、さっきの幻影猫がいた。
そして、その後ろには――
「……!」
小さな幻影猫がいた。
親の身体の後ろに隠れるようにして、こちらを見ている。
「……子ども?」
ハルが呟く。
灰色がかった黒い毛。
大きな耳。
淡い紫色の瞳。
間違いない。
まだ幼い幻影猫だった。
親の幻影猫は、子どもの前に立つ。
低く唸りながら、ハルたちを警戒している。
けれど、その目には敵意だけではなく、明らかな怯えがあった。
「……この子を守ってるのね」
リリアが小さく呟く。
「……そうだったのか」
ハルは小さな幻影猫を見る。
「ずっと、この子を守ってたんだな」
幻影猫は答えない。
ただ、子どもの前から動こうとしなかった。
ハルは小さな幻影猫をじっと見る。
身体が小さいだけじゃない。
動きにも力がなく、親の後ろから出てくることもほとんどない。
「……この子、少し弱ってるんじゃないか?」
リリアも小さな幻影猫を見る。
「そうね……元気がないみたい」
小さな幻影猫が、弱々しく鳴いた。
近くには食べ物らしきものもある。
それでも、ほとんど口にしていないようだった。
「普段食べられるものも、今は食べるのがきついのかもしれない」
ハルは小さな幻影猫を見つめる。
「……何か、してあげられることはないかな」
ハルは周囲を見渡す。
すると、幻影猫の近くに何かが落ちていることに気づいた。
羽毛が散らばっている。
その近くには、まだ新しい血の跡も残っていた。
「……これ、さっき捕まえたのか?」
ハルが近づいて見る。
そこには、小さな鳥の死骸があった。
まだ食べられる部分が残っている。
ハルは幻影猫を見る。
「これ、使ってもいいか?」
幻影猫は低く唸る。
けれど、攻撃してくることはない。
ハルは少し待つ。
幻影猫は警戒したまま、ハルを見ている。
「……ダメってわけじゃなさそうだ」
リリアが小さく頷く。
「たぶん、あなたが何をするのか見てるんじゃない?」
「そうかもしれない」
ハルは鳥の死骸を見る。
「じゃあ、これを食べやすくしたらどうかな」
「どうやって?」
「料理する」
「料理?」
リリアが首を傾げる。
「道具はないけど」
ハルは周囲を見渡す。
鍋も包丁もない。
持っている調理器具は何もない。
「……あるものでやるしかないか」
ハルは少し平らな岩を見つける。
その横には、もう一つ手頃な大きさの石があった。
ハルは鳥の肉を小さく裂き、平らな岩の上に置く。
そこへ、森で見つけた柔らかそうな木の実や植物を加える。
「少しでも食べやすくできたらいいな」
ハルはもう一つの石を手に取る。
「こうやって……」
グッ。
肉と木の実を石ですり潰していく。
「潰すの?」
「ああ。硬い部分を細かくして、食べやすくする」
ハルは何度も石を動かして、食材を細かくしていく。
肉と木の実が混ざり、まとまり始める。
ハルは両手で材料をまとめる。
「丸めるの?」
リリアが聞く。
「そう。細かくして丸めれば、この子でも食べやすいと思う」
ハルは小さな団子をいくつも作っていく。
そして、近くで火を起こせそうな場所を探す。
「火を使うの?」
「ああ。生のままより、火を通した方が食べやすい」
ハルは乾いた枝を集める。
ポチも枝を咥えて運んでくる。
「ポチ、ありがとう」
「ワン!」
集めた枝を組み、火を起こす。
やがて、小さな火が燃え始めた。
ハルは作った肉団子を木の枝に刺す。
そして、火の上でゆっくりと回しながら焼いていく。
じゅう……。
肉の香りが、洞窟の中に広がる。
「……いい匂いね」
リリアが呟く。
ハルは焼き加減を見ながら、肉団子を回していく。
表面が少しずつ焼けていく。
やがて、香ばしい匂いが強くなった。
「……よし」
ハルは火から外す。
「……うん。ちゃんと火が通ってる」
焼き上がった肉団子を少し冷ます。
そして、幻影猫の親から少し離れた場所に置いた。
ハルは小さな幻影猫を見る。
「……ほら。食べられそうなら、食べてみてくれ」
幻影猫はすぐには動かない。
ハルたちを警戒している。
ハルはゆっくりと後ろへ下がる。
リリアもハルと一緒に距離を取る。
しばらくして。
幻影猫がゆっくりと肉団子へ近づいた。
匂いを確かめる。
そして、一口だけ齧った。
「……」
ハルは黙って見守る。
幻影猫はもう一度、肉団子を齧った。
問題がないと分かったのか、今度は子どもの方へ押し出す。
小さな幻影猫が恐る恐る近づく。
そして、肉団子を口にした。
「……食べた」
ハルが小さく笑う。
小さな幻影猫は、ゆっくりと肉団子を食べていく。
「よかった……」
リリアも微笑む。
その様子を見て、ハルの胸に少しだけ安心感が生まれた。
「これを食べて、少しでも元気になってくれたらいいな」
だが、まだ問題は残っている。
街の近くで目撃されていた以上、冒険者たちは今後も幻影猫を探すだろう。
このまま何も伝えずに戻れば、また追われるかもしれない。
「リリア」
「何?」
「ギルドには、どう報告する?」
リリアは少し考える。
「正直に話すしかないと思う」
「子どもがいることも?」
「ええ」
リリアは頷く。
「もし知らない冒険者がこの場所を探したら、もっと怖がらせてしまうもの」
「そうだよな」
ハルは幻影猫を見る。
「じゃあ、こいつらを危険な魔獣として扱わないように伝えよう」
「それがいいわね」
リリアは剣から手を離す。
「でも、今は子どもを守ってるから、近づきすぎたら襲ってくるかもしれないわ」
「そうだな。今後は、見つけても刺激しないように注意してもらおう」
幻影猫は二人を見ている。
先ほどまでの敵意は、少しだけ薄れていた。
けれど、まだ完全に警戒を解いたわけではない。
ハルはそれでいいと思った。
無理に近づく必要はない。
仲良くなる必要もない。
ただ、互いに危害を加えなければ、それでいい。
「じゃあ、俺たちは戻ろう」
ハルが立ち上がる。
リリアも頷く。
「ええ」
二人とポチは洞窟を出た。
「……またな」
ハルが小さく笑う。
リリアも振り返る。
「元気でね」
二人とポチは、森の中を歩き始めた。
「最初は、街の近くに危険な魔獣がいると思ってた」
「私もよ」
リリアが答える。
「でも、実際は違った」
「ああ」
ハルは森の奥を見る。
「子どもを守るために、街の近くまで来てたんだ」
魔獣だから危険。
魔獣だから倒す。
そんな簡単な話ではない。
幻影猫も、今日見た小さな幻影猫も。
ただ、生きるために森の中で暮らしていただけなのだ。
「……魔獣って、思ってたよりずっといろいろいるんだな」
ハルが呟く。
リリアは少しだけ笑う。
「そうね」
「怖い奴もいるけど、全部が敵ってわけじゃない」
「ええ」
リリアは前を向く。
「だから冒険者は、魔獣を見つけたら必ず倒すんじゃなくて、まず相手を見極める必要があるのよ」
「見極める……か」
ハルはその言葉を繰り返す。
「料理と似てるな」
「料理?」
「食材だって、見た目だけじゃ分からないだろ」
ハルは笑う。
「ちゃんと見て、触って、匂いを確かめて、それからどうするか考える」
リリアが呆れたように笑う。
「結局、料理の話になるのね」
「料理人だからな」
「ふふっ」
ポチが二人の前を歩いている。
時々振り返って、ハルとリリアを確認する。
「ポチもお疲れ様」
「ワン!」
森を抜ける。
遠くに街の姿が見えてきた。
「戻ってきたな」
ハルが街を見る。
「ギルドに報告して、それから……」
ハルは少し考える。
「何か食べよう」
「やっぱりそれなのね」
リリアが笑う。
「今日はずっと森の中だったし、腹減ったよ」
ポチも嬉しそうに尻尾を振る。
「ワン!」
「お前もか」
ハルが笑う。
三人は街へ向かって歩いていく。
ハルたちが去った後。
洞窟の中では、親の幻影猫が小さな子どものそばに寄り添っていた。
小さな幻影猫は、残った肉団子をゆっくりと食べている。
親の幻影猫は、洞窟の外へ視線を向ける。
やがて、何もないことを確かめるように辺りを見回すと、再び子どもの隣に戻った。
二匹は寄り添うようにして、静かに過ごしていた。




