幻影猫の痕跡
翌朝。
ハルは宿の部屋で身支度を整えていた。
「今日も行くぞ、ポチ」
ベッドの上で丸くなっていたポチが顔を上げる。
「ワン!」
「よし」
ハルは荷物をまとめる。
昨日の調査では、幻影猫の姿を一度確認した。
だが、分かったのは見た目と、姿を消す能力だけだった。
なぜあの森で目撃情報が相次いでいるのか。
何のために森に現れているのか。
まだ分からないことが多い。
ポチがハルを見る。
「今日はちゃんと正体を確かめような」
「ワン!」
二人は宿を出た。
* * *
冒険者ギルドの前。
ハルとポチが待っていると、リリアがやってきた。
「おはよう、ハル」
「おはよう、リリア」
「準備はできてる?」
「もちろん!」
ハルが答える。
リリアはポチを見る。
「ポチも元気そうね」
「ワン!」
ポチが尻尾を振る。
「じゃあ、行きましょうか」
「ああ!」
ハルが答える。
三人は街を出て、昨日と同じ森へ向かった。
* * *
やがて、昨日幻影猫を見た森へと入っていった。
「昨日は、この辺りで幻影猫を見たのよね」
リリアが周囲を見渡す。
「ああ」
ハルも辺りを見る。
「……何の痕跡もないね」
昨日、幻影猫が姿を消した場所にも、目立った痕跡は残っていない。
「昨日はポチが見つけてくれたけど……」
リリアがポチを見る。
「今日はまだ何も反応がないわね」
「そうだな」
ハルもポチを見る。
「焦らず、少しずつ探していこう」
「ええ」
三人は周囲に注意しながら、森の奥へと進んでいく。
しばらく歩いても、幻影猫の姿は見えない。
「……いないな」
ハルが小さく呟く。
リリアも周囲を見渡す。
「姿を消せるなら、近くにいても分からないのかもしれないわ」
「そうだよな……」
ハルは足元を見る。
葉の上には新しい足跡もない。
枝が折れた跡もない。
何かが通ったような痕跡すら見つからなかった。
「本当に、何もないな」
「焦って探しても見落とすだけよ」
リリアが言う。
「少しずつ範囲を広げていきましょう」
「ああ」
三人はさらに森の奥へ進んだ。
その時だった。
ポチが突然、足を止めた。
「……ポチ?」
ポチは森の奥を見つめている。
耳がピンと立っていた。
「何かいるのか?」
ハルがポチの視線を追う。
すると、森の奥で木々がわずかに揺れた。
「……あっちか?」
ハルもポチの隣に立ち、森の奥を見る。
次の瞬間、ポチが森の奥へ駆け出した。
「待って、ポチ!」
リリアが声をかける。
ポチは一度振り返ったが、すぐにまた森の奥へ駆けていく。
「何か見つけたのかもしれないわ」
「追いかけよう」
三人はポチの後を追った。
しばらく進むと、ポチが何かを見つけたように立ち止まった。
前方の木々の間で、何かが動いた。
「……!」
ハルが目を凝らす。
一瞬だけ、灰色がかった黒い毛並みが見えた。
「いた!」
ハルが声を上げる。
幻影猫が、こちらを振り返った。
淡い紫色の瞳。
だが、次の瞬間。
その姿が、景色の中へ溶けるように消えた。
「消えた……!」
リリアが辺りを見る。
「《身体強化》!」
ハルがスキルを発動する。
「ハル、右!」
リリアの声。
ハルが右を見る。
そこに、幻影猫の姿が一瞬だけ見えた。
「……!」
だが、次の瞬間には消えている。
「どこだ……!」
――その瞬間。
背後から、風を切る音がした。
「っ!」
ハルが振り向く。
幻影猫の爪が、すぐ目の前まで迫っていた。
「危ない!」
リリアが飛び込んできて、剣で爪を弾く。
キィンッ!
鋭い音が森に響いた。
幻影猫は空中で身を翻し、地面へ着地する。
「ハル、大丈夫?」
「ああ。リリア、ありがとう!」
「油断せずにいくわよ!」
「ああ!」
幻影猫は低い姿勢になり、二人をじっと見ている。
リリアが剣先を幻影猫へ向ける。
幻影猫は再び姿を消した。
幻影猫は木々の間を駆け抜けていく。
狭い木々の間を、まるで地面の形をすべて理解しているかのように駆け抜ける。
「速すぎる……!」
リリアも必死に追っている。
「ハル! あっちよ!」
「分かった!」
ハルはリリアの声がした方向へ目を向ける。
木々の隙間から、幻影猫の姿が一瞬だけ見えた。
「いた!」
ハルが地面を蹴る。
《身体強化》によって強化された脚力で、一気に距離を詰める。
「ポチ、追えるか!」
「ワン!」
ポチがさらに速度を上げる。
幻影猫が木々の間を抜け、右へ逃げていく。
ハルもその後を追う。
だが、幻影猫はすぐに方向を変えた。
「……っ!」
ハルが追おうとした、その時。
「ハル、こっち!」
リリアが別の方向から声をかける。
ハルが振り向く。
リリアは幻影猫の動きを先回りしていた。
「そっちに逃げるわ!」
「分かった!」
ハルが向きを変える。
幻影猫はリリアの姿を見て、さらに方向を変えた。
その瞬間、ポチが横から飛び出す。
「ワン!」
幻影猫は急停止し、反対方向へ逃げた。
「逃がさない!」
ハルが追う。
幻影猫は木々の間をすり抜けていく。
ハルも後を追い、リリアは少し離れた場所から幻影猫の動きを見ていた。
「……また右」
リリアが呟く。
幻影猫が右へ向きを変える。
リリアも走り出す。
だが、幻影猫が次に向かった先には、ポチが回り込んでいた。
「……!」
幻影猫が足を止める。
その隙に、ハルが距離を詰めた。
「今だ!」
幻影猫は身を翻し、木々の間へ逃げ込む。
三人もすぐに追う。
幻影猫は必死に逃げ続ける。
だが、逃げるたびに三人との距離が少しずつ縮まっていく。
木々の密集した場所を抜けた先で、視界が少し開けた。
幻影猫が一瞬だけ足を緩める。
「……あそこだ!」
ハルが叫ぶ。
幻影猫が再び走り出す。
三人も一気に追う。
木々の間を抜けた先には――
開けた場所が広がっていた。
幻影猫が森の中から飛び出す。
「止まれ!」
ハルが叫ぶ。
幻影猫が足を止める。
ハルたち三人が、それぞれ距離を取りながら幻影猫を囲んでいた。
「……囲めた」
ハルが息を整える。
幻影猫は低い姿勢になり、三人を順番に見ている。
「今度は逃がさないわよ」
リリアが剣を構える。
幻影猫が一歩後ろへ下がった。
「……動いた!」
ハルが前へ出る。
幻影猫はすぐに横へ飛び、森へ戻ろうとする。
「ポチ!」
ハルが叫ぶ。
ポチが一気に走り出した。
幻影猫の前へ回り込み、逃げ道を塞ぐ。
「……!」
幻影猫が急停止する。
すぐに反対側へ向きを変える。
「行かせない!」
ハルがその方向へ回り込む。
幻影猫はさらに向きを変えた。
だが、その先にはリリアがいる。
「こっちもダメよ」
リリアが剣を構える。
幻影猫が足を止める。
三人に囲まれ、逃げ道を失った幻影猫が、低く身を構えた。
「来るわよ!」
リリアが叫ぶ。
幻影猫が地面を蹴った。
ハルへ向かって、一気に距離を詰めてくる。
「っ!」
ハルは身体を横へずらし、爪をかわす。
幻影猫はそのまま駆け抜けると、すぐに向きを変えた。
「逃げる気だ!」
ハルが叫ぶ。
「ポチ!」
「ワン!」
ポチが幻影猫の進行方向へ駆け出す。
幻影猫はポチを見て、急停止した。
そして、すぐに反対方向へ走り出す。
「こっちもダメよ!」
リリアが回り込む。
幻影猫はさらに向きを変えた。
だが、その先にはハルがいる。
「こっちも逃がさない!」
ハルが距離を詰める。
幻影猫は後ろへ下がった。
右を見る。
左を見る。
逃げ道を探すように、何度も周囲を見回している。
「……?」
ハルは動きを止めた。
幻影猫の様子がおかしい。
こちらを警戒しながら、低く唸っている。
その瞳には、怯えたような色が浮かんでいた。
「……こいつ、戦う意志はないのか?」
ハルが呟く。
幻影猫はハルたちを睨みながら、さらに後ろへ下がる。
近づけば、威嚇する。
だが、自分から攻撃を仕掛けようとはしない。
「確かに……」
リリアも剣を構えたまま、幻影猫を見る。
「私たちを警戒しているけど、戦おうとはしていないわね」
幻影猫が一歩下がる。
そして、森の奥へ視線を向けた。
「……?」
ハルもそちらを見る。
何もない。
幻影猫はもう一度、森の奥を見る。
その表情が、さらに不安そうになる。
「……何を気にしてるんだ?」
ハルが呟く。
幻影猫は三人から離れようと、ゆっくり後ろへ下がる。
「待って」
リリアが声をかける。
幻影猫がびくっと身体を震わせた。
そして、再び低く唸る。
「……やっぱり、人間を怖がってるのかもしれないわね」
リリアが呟く。
ハルは幻影猫を見つめる。
「でも……」
幻影猫の視線は、また森の奥へ向いている。
「何かを気にしてる」
「あっちに何かあるのかもしれないわ」
リリアが言う。
ハルは少し考える。
「……一旦、下がろう」
「ええ」
二人がゆっくりと後ろへ下がる。
ポチもハルの隣へ戻った。
幻影猫はしばらく三人を警戒していたが、少しずつ身体の力を抜いていく。
そして、森の奥へ向き直った。
「……やっぱり、あっちが気になるみたいだな」
ハルが呟く。
「刺激しないように、少し時間を置きましょう」
リリアが言う。
「ああ」
ハルは幻影猫から目を離さない。
幻影猫は森の奥へ向かって歩き出した。
そして、木々の間へ姿を消していく。
「……行ったわね」
「ああ」
ハルは幻影猫が消えた方向を見る。
「じゃあ、俺たちは少し離れたところから、あいつが気にしていた方を調べてみよう」
「そうね」
二人は幻影猫を追いかけず、少し距離を取って森の奥へ進み始めた。
ポチも二人の後をついていく。
しばらく進んだところで、ハルが足を止めた。
「……ここからなら、さっきの場所も見えないな」
「ええ。これなら幻影猫を刺激することもなさそう」
リリアが周囲を見渡す。
ハルも森の奥へ視線を向けた。
幻影猫が気にしていた方向。
そこには、まだ何も見えない。
「行こう」
「ああ」
三人は、幻影猫が気にしていた森の奥へと進んでいった。




