姿なき魔獣
翌朝。
ハルは冒険者ギルドの掲示板を眺めていた。
「……これは……」
一枚の依頼書に目が止まる。
そこには、最近この街の近くで目撃されている魔獣について書かれていた。
「おはよう、ハル」
「あ、おはよう。リリア」
後ろから声をかけられ、ハルが振り返る。
「何を見てるの?」
「これ」
ハルは依頼書を見せる。
「最近、この街の近くで正体不明の魔獣が目撃されている。姿を確認したと思ったら、すぐに消える……」
「……ああ」
リリアが依頼書を読む。
「昨日、屋台の店主が言ってた魔獣のことかもしれないわね」
「やっぱりそうだよな」
ハルは依頼書を手に取る。
「ちょっと聞いてみよう」
二人は受付へ向かう。
「この依頼を受けたいんですけど」
受付の女性が依頼書を確認する。
「こちらですね……」
受付の女性が内容を確認する。
「この依頼は、正体不明の魔獣が対象になっていますので、危険度が分かっていません」
「危険度が……?」
「はい。そのため、最低でもBランク以上の冒険者が必要になります」
「Bランク……」
「ハルさんはCランクですので、この依頼を単独で受けることはできません」
「そうなんですか……」
ハルが依頼書を見る。
すると、隣にいたリリアが口を開く。
「私が同行すれば、大丈夫ですよね?」
受付の女性がリリアを見る。
「はい。リリアさんはBランクですので、同行していただければ受注可能です」
リリアがハルを見る。
「じゃあ、一緒に行きましょうか?」
「……いいのか?」
「もちろん」
「私もどんな魔獣なのか、気になるしね」
リリアが笑う。
「それに、ハルはこの魔獣が食べられるか知りたいんでしょ?」
「もちろん」
「やっぱり……」
リリアが呆れたように笑う。
「ただし、正体不明の魔獣ですので、危険を感じた場合は無理に追わず、すぐに撤退してください」
「分かりました」
リリアが頷く。
依頼の内容は討伐ではなく、魔獣の調査だった。
目撃場所。
行動範囲。
特徴。
そして、危険度の確認。
三人はギルドを出て、街の外へ向かった。
* * *
街を出てしばらく歩く。
やがて、昨日まで歩いていた森が見えてきた。
「この辺りが目撃場所よ」
リリアが周囲を見渡す。
「何か痕跡がないか探してみましょう」
「分かった」
ハルも地面を見る。
木々。
草。
落ち葉。
特に変わったものはない。
「……普通の森に見えるけどな」
「目撃されたのは、この辺りらしいわ」
二人で周囲を調べる。
すると――。
「……これ」
ハルが木の幹を指差した。
「爪痕?」
「そうみたいね」
爪痕はかなり深く、木の表面が大きく削られていた。
「……かなり深いな」
「ええ。これだけの傷を残せるなら、かなり力のある魔獣かもしれないわ」
二人は顔を見合わせる。
「……気をつけて進みましょう」
「ああ」
二人は周囲に注意を払いながら、森の奥へと進んでいった。
その時だった。
ポチが突然立ち止まった。
「……ポチ?」
ポチは森の奥を見つめている。
耳がピンと立っていた。
「何かいるの?」
リリアが小声で聞く。
ハルもポチの視線を追う。
だが、何も見えない。
木々が風に揺れているだけだ。
「ポチ、何か感じるのか?」
「……ワン」
ポチは小さく鳴く。
そして、森の奥へ歩き始めた。
「おい、待てよ」
ハルとリリアも後を追う。
* * *
森の中を進んでいく。
ポチは何度も立ち止まり、周囲の匂いを嗅いでいる。
「……」
リリアもポチの様子を見ながら歩く。
その時――。
ガサッ。
「!」
三人が同時に振り向く。
木々の間に、魔獣の姿があった。
黒に近い灰色の毛。
その毛並みには、淡い紫色が混じっている。
猫のようにしなやかな身体。
大きな耳。
長い尻尾。
淡い紫色の瞳。
「……猫みたいな魔獣?」
ハルが呟く。
その魔獣と目が合った。
次の瞬間――。
魔獣の身体が揺らいだ。
「……!」
空気が歪む。
身体の輪郭が、景色に溶け込むように薄くなっていく。
「消える……?!」
ハルが走り出す。
「《風歩》……!」
スキルを呟く。
足元に風がまとわりつき、身体を前へ押し出す。
地面を蹴る。
魔獣との距離を一気に詰めていく。
「もう少し……!」
あと少しで手が届く。
その瞬間――。
魔獣の姿が完全に消えた。
「……!」
ハルの手が空を切る。
そこには、何もいない。
ただ、落ち葉が少しだけ舞っていた。
「……消えた……」
ハルは魔獣がいた場所を見る。
魔獣の姿はどこにもない。
ハルは周囲を見渡す。
「……?」
すると、少し先の木々が不自然に揺れた。
「……!」
ハルは目を凝らす。
風で揺れているだけではない。
何かが、木々の間を移動している。
「……完全にその場から消えるわけじゃないのか……?」
ハルは魔獣の動きを追おうとする。
だが、すぐにその姿は分からなくなった。
その時――。
「ハル!」
後ろからリリアの声が聞こえた。
振り返ると、リリアとポチが追いついてくる。
「大丈夫?」
「ああ」
ハルは頷く。
「魔獣は?」
「消えた」
「消えた?」
「ああ。でも、完全に消えたわけじゃない」
ハルは先ほど木々が動いた方向を見る。
「少し先で、木が不自然に揺れたんだ」
「……なるほど」
リリアもその方向を見る。
「消えるというより……景色に同化しているのかもしれないわね」
ハルは頷く。
ポチも鼻を動かしながら、周囲を探している。
「……ハル」
「ん?」
リリアがハルを見る。
「さっきのスキル……」
「《風歩》?」
「ええ。それって、風兎が使う力と似ているわ」
「風兎?」
「白銀の毛並みに、長い耳を持った魔獣よ」
「……!」
ハルは思い出す。
リリアと出会う前、森で出会った魔獣。
風をまとい、森の中を駆け抜けていた。
「……あの魔獣か」
「知ってるの?」
「ああ。森で出会ったんだ」
ハルは風兎との戦いを思い出す。
「風兎は風を操る魔獣として知られているの」
リリアは少し考える。
「でも、魔獣の力を自分のスキルとして使える冒険者なんて、私は聞いたことがないわ」
「……そうなのか?」
「少なくとも、私の知る限りではね」
ハルは少し悩みながら答える。
「……俺もまだはっきりと分かったわけじゃないんだが……」
「何が?」
「魔獣を食べると、その魔獣の力を使えるようになることがあるんだ」
「……魔獣を食べると?」
リリアが驚いた顔をする。
「ああ。でも、毎回じゃない。何か条件があるみたいなんだ…」
リリアはハルを見る。
「やっぱり、あなたって不思議な人ね」
「そうかな?」
「ええ。かなりね」
ハルは苦笑する。
* * *
その後も森を調べたが、魔獣の姿を見つけることはできなかった。
残されていたのは、木の爪痕。
乱れた落ち葉。
そして、途中で途切れる匂いだけ。
「今日はここまでにしましょう」
リリアが言う。
「うん」
ハルも頷く。
「一度ギルドに報告しよう」
「そうね」
三人は街へ戻った。
---
冒険者ギルド。
受付で、ハルとリリアは調査結果を報告する。
「森の中で、実際にその魔獣を見ました」
リリアが説明する。
「特徴は?」
「黒に近い灰色の毛。毛並みには淡い紫色が混じっていました。大きな耳と長い尻尾。そして、淡い紫色の瞳です」
「……黒に近い灰色の毛。大きな耳に、長い尻尾……」
受付の女性が、これまでに寄せられた目撃情報を確認する。
「少し待ってください」
受付の女性は、記録を何枚かめくっていく。
「……やっぱり」
「何か分かりましたか?」
「これまでにも、似たような目撃情報が何件かあります」
受付の女性が記録を見せる。
「姿を見たと思ったら突然消えた。黒っぽい毛並みに淡い紫色の瞳……」
「今回の魔獣と似てるな」
ハルが言う。
「はい。これまでの情報と合わせて考えると……」
受付の女性が一冊の資料を取り出す。
「もしかすると、幻影猫かもしれません」
「幻影猫?」
ハルが聞き返す。
「はい。魔獣の中でも目撃例が少ない種類です」
受付の女性が資料を開く。
「周囲の景色に身体を溶け込ませ、姿を見えなくする能力を持つと言われています」
「やっぱり、透明になってたわけじゃないんだ……」
ハルが呟く。
「完全に透明になるわけではありません。光や空気の揺らぎ、足跡などから存在を確認できることがあります」
「なるほど」
「ただし、詳しい生態については分かっていません」
受付の女性が資料を閉じる。
「幻影猫自体、ほとんど人前に姿を現さない魔獣ですから」
「……なるほど」
ハルは考える。
「じゃあ、昨日の店主が言ってた『姿を見たと思ったら消える魔獣』っていうのも……」
「おそらく、その幻影猫でしょうね」
リリアが頷く。
「今日見た個体と同じ可能性が高そうね」
「明日、もう一度調べてみない?」
ハルが言う。
リリアが少し驚く。
「明日も?」
「ああ」
ハルは森の方を見る。
「今日だけじゃ、まだ何も分からない」
「……そうね」
リリアは少し考えたあと、笑う。
「分かった。明日、もう一度行きましょう」
「うん」
「ポチもね」
「ワン!」
ポチが元気よく鳴く。
三人は翌日の再調査を決めた。
* * *
その夜。
宿の部屋。
ハルはベッドに座り、自分の手を見る。
「……《風歩》」
魔獣を食べて得た力。
そして今日、リリアに言われた。
自分の力は、この世界では珍しいらしい。
「……俺の力って、一体なんなんだろうな」
隣ではポチが丸くなって眠っている。
「まあ……」
ハルはポチを見る。
「明日になれば、また何か分かるか」
「……ワン」
眠っているはずのポチが、小さく鳴いた。
ハルは笑う。
「おやすみ、ポチ」
窓の外。
街の向こうに広がる森は、静かに夜を迎えていた。
その森のどこかで――。
淡い紫色の瞳が、暗闇の中で一瞬だけ光った。
そして、その姿は夜の森へと溶けていった。




