第1話 あと十日しかない
馬車の車輪が石を踏むたび、尻の下から鈍い衝撃が上がってきた。
異世界へ来て二週間。僕は早くも、腰に敷く厚手の布を買うべきだったと後悔していた。
「すみませんねえ、シュウさん。うちに余分な座布団があればよかったんですが」
向かいに座るバルド社長が、申し訳なさそうに頭をかいた。大きな体に似合わず、困ったときほど眉が下がる人だ。
「いえ、大丈夫です」
反射的に答えてから、僕は腰をさすった。大丈夫かどうかでいえば、あまり大丈夫ではない。ただ、社長も同じ板の座席に座っている。僕だけ文句を言うほどのことでもない気がした。
日本では派遣のシステムエンジニアをしていた。派遣先が替わるたび、知らない業務を教わり、分からない言葉をメモし、誰が何をしているかを図にした。華やかな仕事ではなかったが、僕には合っていた。
二週間前まで、僕は都内の中小企業で、販売管理システムの保守をしていた。朝一番に届く問い合わせを開き、印刷できない、数字がずれる、前の担当者しか操作を知らない、といった話を順番に片づける。最後の日も、在庫一覧の一行だけ合わない理由を探していた。休憩室で目を閉じ、次に目を開けたときには、舗装も電柱もない街道の脇に寝ていた。
神様にも会っていない。剣も授かっていない。財布と社員証は持っていたが、硬貨は使えず、社員証は黒い板として珍しがられただけだった。
幸運だったのは、言葉が通じたことだ。通りかかった商人に保護され、人材斡旋所へ連れていかれた。そこで前職を説明しようとして、「魔道具の困りごとを聞き、直す人」とまとめられた。間違いではない気がして、僕は訂正しなかった。
そして今は、ラウム王国の人材斡旋所から、灯り木魔道具社へ派遣されている。
会社といっても、社長を含めて三人しかいない。生活用の魔道具を掃除し、魔石を詰め替え、壊れた取っ手を直す、小さな修理屋だ。
初日に渡された契約札には、派遣期間三十日、延長は双方相談、とあった。僕が役に立つかどうかも、この世界で暮らしていけるかどうかも、まだ分からない。だから本当なら、銀貨二枚は手元に残しておくべきだった。
けれど、朝の店先で依頼書を握りしめた社長は、「村の子どもが冬を越せないかもしれない」と言った。そう聞いてから、馬車代を出せませんとは言いにくい。
「麦穂村は、本当に食料がなくなるんですか」
「村長の手紙には、冬越しの分が足りないと。穀物を数える盤も調子が悪いらしいんです。あそこは去年、屋根の修理代も待ってもらっていて……今回も、あまりお金は」
社長の声が小さくなる。
出発前、僕は依頼書の報酬欄が空白なのを見た。馬車代を出す余裕もないと言われ、気づけば自分の財布を開いていた。銀貨二枚。日本円でいくらかは分からないが、街で気になっていた背もたれ付きの椅子に、少し遠ざかったことだけは分かる。
「まず、盤を見てみましょう。直せないかもしれませんけど」
「それで十分です。シュウさんは話を聞くのがうまいから」
技術ではなく、そこを褒められると少し複雑だった。けれど、悪い気はしない。
街道の両側に、金色の畑が広がってきた。刈り取りを終えた麦の切り株が、午後の光を細く返している。食料不足の村という言葉から想像していた景色より、ずっと豊かに見えた。
村の入口では、痩せても太ってもいない中年の男性が、何度も帽子をかぶり直しながら待っていた。
「マルクです。村長をしております。遠いところを、本当に、本当にありがとうございます」
握られた両手が温かい。横では子どもたちが、僕の黒い髪を珍しそうに見ていた。
家々の軒には、乾かした豆や赤い実が吊られていた。薪を割る音がして、パンを焼く匂いもする。飢えかけた村の静けさではない。だからこそ、誰かの計算が間違っているのか、それとも見た目では分からない事情があるのか、決めつけないようにしようと思った。
挨拶もそこそこに、僕たちは穀倉へ案内された。厚い木の扉が開くと、乾いた麦の匂いが押し寄せる。壁際には麻袋が天井近くまで積まれ、棚には豆や根菜の籠が並んでいた。
僕は思わず、社長と顔を見合わせた。
「たくさん、ありますね」
「そう見えますよね」
村長は笑わなかった。穀物計測盤の前へ進み、青白く光る石板に手を置く。盤面に文字が浮かび、いくつかの数字が明滅した。僕にはまだ、王国の単位を完全には読み取れない。それでも、数字同士が不自然に離れているのは分かった。
「村では、一日どれくらい使うんですか」
僕が尋ねると、村長は即答した。
「三十七袋です」
「この倉庫には?」
「台帳では三百八十二袋。各家にある分を足しても、四百に届くかどうかです」
三百八十二を三十七で割る。頭の中で暗算し、僕は積み上がった袋をもう一度見た。
村長は、帽子を胸の前で握りしめた。
「配給を減らせば、もう少し延ばせます。でも、これから寒くなれば畑仕事にも薪割りにも力が要る。老人や子どもの分を減らすわけにもいきません」
穀倉の外で、さっきの子どもたちが笑いながら走っていった。その声と、村長の言葉がうまく重ならなかった。
「あと十日しかないんです」
でも穀倉は、どう見ても満杯だった。




