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第三十三話 『コスパに目が眩んだ(下)』

「それでは、問題がないようでしたら、契約についてお客様とお話しさせていただいてもよろしいでしょうか?」


 こうして俺は、契約に関する面倒事を、無責任にも丸ごと林主任へと丸投げすることになった。

 主任と営業マンという二人の大人が契約の話をしている間、俺と玲華は少し離れたところで雑談をしていた。


「どうだ? ここ、気に入ったか?」


 家具や家電については、現時点でもテレビ、冷蔵庫、机や椅子、エアコンなど、最低限必要なものは一通り揃っている。

 それどころか、浴室やキッチンまで備え付けられている。

 ベッドこそないものの、基本的にはここだけでも生活できそうなくらいだ。

 他に足りないものがあれば、その都度買い足していけばいい。


「うん! すごく綺麗! 必要なものも揃ってるよ。でも、私、まだ追加したいものがある!」


「何を?」


「ポップコーンメーカー! 綿あめ機! アイスクリームマシン!」


「……却下」


「えー!」


「却下だ。そんなものは必要ない。というか、なんで全部お菓子関連なんだよ」


 玲華の追加設備案を、俺は即座に却下した。

 議員事務所にそんなものを置く必要性など、今のところ一切感じない。


「だって、仕事の話をしに来る人って、お腹空いてるかもしれないじゃん。みんな忙しいから、ちゃんとご飯を食べてないと思うの。空腹じゃ、真面目な話もしにくいでしょ?」


 そういうことだったのか。

 単なるお菓子好きの思いつきではなかったらしい。

 相手の体調まで気遣っている。

 ……そう考えると、彼女の提案にも少しくらいは耳を傾けてやるべきなのかもしれない。

 とはいえ、やっぱり何かがおかしい。


「でも、お客さんが空腹なら、そんな栄養のない甘いものを食べさせるのもどうなんだ?」


「うん。確かにそうだね」


「……つまり、その提案の根っこにあるのは、結局お前自身の私欲なんだろ?」


「うん。確かにそうだね」


 ……認めるんだ。

 二回とも、あまりにも爽やかに肯定された。

 ここまで迷いなく認められると、むしろ俺のほうに何か問題があるような気がしてくる。


「そこはもう少し誤魔化せよ。……却下」


「……ひどい。事務所に甘いものがあったら、みんな喜ぶと思うのに」


 かくして、玲華の提案は、動機が不純という至極真っ当な理由によって却下された。


「ビリヤード台とかどう? みんなで遊べるよ」


「却下」


「ボードゲームは? 頭を使うから、判断力を鍛えるのにも役立つよ」


「却下」


「卓球台! 運動になるし、健康にもいい!」


「それも却下だ」


 玲華が一つ提案するたび、俺は一つずつ却下していく。


 そんな不毛なやり取りを繰り返しながら、俺たちは二人でソファに寝転がり、事務所に追加する家具や設備について、あれこれと話し合っていた。


 それから三十分ほど経った頃、林主任が大量の書類を抱えて俺たちのところへ戻ってきた。

 さっきまで一緒だった営業マンの姿はない。どうやら契約が終わったので、先に帰ったらしい。


「二人とも、何の話をしてたの? こっちは全部片付いたよ。ほら、これ」


「ありがとう、葛欣姉さん」


「主任、ありがとうございます」


「これくらいどうってことないよ。注意事項と振込先も書いてあるから、分からないことがあったらいつでも聞いてね」


「本当に助かりました。俺たち、どうやってお礼をしたらいいのか……」


「じゃあ……お兄ちゃんさん、私にチューしてくれる?」


 そう言って、林主任は頬に指を当てながら、俺に向かってウインクした。


「…………え?」


 たったそれだけ。

 何か特別なことをしているわけでもない。

 なのに、異性経験ゼロの純情高校生である俺の心臓には、あまりにも刺激が強すぎた。


「い、いや……それはちょっと無理です。主任、もうからかわないでくださいよ」


「エッチなのは禁止! お兄ちゃん、顔がキモい!」


「うぐっ! 痛い! ちょ、痛いって!」


 とっくに顔を背けていたというのに、隣に座っていた玲華から肘鉄を食らった。

 しかも、ついでとばかりに「キモい」という評価まで頂戴する。

 ……この手のやり取り、もう何度目だ?

 まさか、このまま定番ネタになったりしないだろうな。


「ふふっ。はいはい、もうからかわないから。じゃあね、お兄ちゃんさん、玲華ちゃん。私もまだまだ書類仕事が残ってるから、本当はもう少しゆっくり話したかったんだけどね」


 そう言うと、林主任は少し肩を落とし、疲れたように小さく息を吐いた。

 その様子から、このあと戻ってからこなさなければならない仕事が、決して楽なものではないことが伝わってくる。それでも、俺たちが彼女を頼ったときには、すぐに駆けつけてくれた。

 その事実を改めて思い返し、俺は彼女がいつも俺たちのことを気にかけてくれているのだと感じた。


「本当に助かりました。外までお見送りしますね」


 そう言ってケビンに電話をかけ、迎えに来てもらうよう伝える。

 そのまま立ち上がり、林主任と一緒に外へ出て車を待つことにした。

 ただし、玲華は来ない。


 どうやらここのソファの座り心地が相当気に入ったらしく、アホみたいに気の抜けた顔でソファに寝転がり、完全にくつろぎモードに入っていた。


 ……お前、議員だよな?


 林主任と一緒に外で車を待ちながら、俺たちは取り留めのない話をぽつぽつと続けていた。

 仕事のことや、最近あったちょっとしたトラブル、日常で遭遇した小さな面倒事など……話しているうちに、気づけばいろんなことを主任に聞いてもらっていた。


 彼女はそんな話を聞きながら、ときどき呆れたような顔をしたり、かと思えば花が咲いたような笑顔を浮かべたりしていた。

 そんな話を続けているうちに、やがてケビンの車がこちらへやって来た。


「よしよし、よく頑張ったね。これからも何か困ったことがあったら、遠慮なくお姉さんを頼っていいからね。お兄ちゃんさんもまだ子供なんだから、あんまり無理しちゃ駄目だよ」


 そう言って、林主任は俺の頭を優しく撫でながら、穏やかな口調で言い聞かせてくれた。

 そのまま車に乗り込むと、最後に俺へ手を振りながら別れを告げた。


 車が走り去り、俺はその場に一人取り残された。

 顔が熱い。

 ……こんなところを玲華に見られたら、また肘鉄を食らうに決まっている。

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