第三十二話 『コスパに目が眩んだ(上)』
「どう思います?」
主任は玲華を見て、それから俺へと視線を移し、そう尋ねた。
「……うん。決めた――」
目を閉じて二秒ほど考える。
そして、深く息を吸った。
「――これにします。実際に現地まで案内してもらって、物件に問題がないことを確認できたら、ここを借りることにします。今日中に契約できますか?」
「はい、分かりました。それでは場所はこちらになります。私が先にバイクで向かいますので、現地でお待ちしています。到着したらご案内しますね」
営業マンはそう言うと、俺たちより先にバイクで現地へ向かっていった。
俺たち三人も車へ戻り、ケビンに運転してもらって、その後を追うことにした。
「やった、やった! 事務所! 私の議員事務所!」
俺や主任とは違い、玲華はこのことについて、それほど深く考えている様子ではなかった。
まるで新しいものを買ってもらった子供のように、車の中で体を揺らしながら嬉しそうに声を上げている。
もしかすると、玲華にとっては、俺たちが車で新しいおもちゃを買いに連れていってくれているような感覚なのかもしれない。
まあ、実際にはおもちゃでもなければ、買ったわけでもないのだけれど。
「まさか、ここまであっさり決めるとは思わなかったよ。世間からどう見られるかとか、そういうことを考えて別の物件を選ぶんじゃないかと思ってた。どうやら、お兄ちゃんさんに対する私の評価も、少し改めないといけないみたいだね」
主任は少し意外そうな顔をしていた。
彼女の中では、俺はきっと、そういった世間の目を気にして別の選択肢を取る人間だったのだろう。
「俺はただ、よく考えたうえで、これなら別に問題ないと思っただけです」
「ふふっ? 格好いいじゃない。ちゃんと自分で決断できる男の子なんだね」
俺がそう答えると、林主任はにっこりと笑いながら褒めてくれた。
「り、林主任、からかわないでくださいよ」
「からかってない、からかってない。本当に格好いいよ。お姉さん、そうやって手際よく物事を決められる子、結構好きだな」
俺が戸惑っているのを見て、主任は楽しそうに笑いながら、俺の頬を軽くつまんだ。
「そんなふうに褒められると……照れちゃいますよ……って、痛い痛い痛い痛い! 玲華、何すんだよ!」
美人のお姉さんに褒められたことで、俺はちょっとばかり調子に乗っていた。
――その瞬間。
隣に座っていた玲華から、いきなり脇腹に拳が飛んできた。
「……なんか、今のお兄ちゃん、キモかった」
「いや、なんで俺、殴られたうえにそこまで言われなきゃいけないの?」
何もしていない。
ただ褒められて、ちょっと嬉しくなっただけだ。
なのに殴られた。
そして嫌われた。
……理不尽すぎないか、これ。
「さっきのは、確かにお兄ちゃんさんが悪いですよ」
「ケビンまで!?」
まさか運転中のケビンにまで追撃されるとは思わなかった。
俺は地味に傷ついた。
しかし、幸いなことに目的地までは近い。
俺が本格的にへこみ始める前に、車は目的地へと到着した。
「着きました。私は駐車できる場所を探してきますので、終わる頃になったら電話してください」
車がゆっくりと速度を落とし、そのまま停車する。ケビンは俺たちが降りられる場所に一時的に車を止めてくれた。
「皆さん、こちらへどうぞ」
車を降りると、先ほどの不動産営業マンが俺たちを待っていた。
彼に案内され、俺たち三人は目の前の建物へと入っていく。
中は全体的にかなり広々としていて、事務所として使うには十分すぎるほどの広さだった。
そして、玄関をくぐった瞬間に理解した。
――なるほど。『ピンクで夢いっぱいの少女風』というのは、決して大げさな表現ではなかったらしい。
床から壁、天井に至るまで、目に入るものは色とりどりの装飾とピンクを基調としたものばかり。
例えるなら、幼い女の子がラメと紙吹雪を部屋中に撒き散らしたような空間だ。
もちろん、これは完全な偏見でしかない。
それでも、この空間に長時間いると、俺の男としての何かが少しずつ削られていくような、妙な感覚を覚えた。
「わあ、素敵! じゃあ、ここはこれから私が使うの?」
「まあな。正確には、俺たち『チーム』の事務所になる。これから人を雇うなら、いわゆる『幕僚』も必要になるだろう」
「チーム? どういうこと?」
「議員事務所っていうのは、議員一人だけで仕事をする場所じゃないんだ。書類を作ったり、電話に出たり、いろいろな仕事を手伝ってくれる人が必要になる。そういう人たちを集めて、俺たち自身のサポートチームを作るんだ。ここを拠点にして、『玲華議員』の仕事を支えてもらう」
「うん、お兄ちゃんさんの言う通り。それに、ちゃんとしたチームがあれば、私たちにとってかなり心強い味方になるよ。地域の人たちとやり取りする窓口にもなるし、私たちだけじゃ手が回らないときには、代わりに有権者の対応もしてもらえるから」
主任は俺の話を引き継ぐように補足した。
確かに、その通りだ。
議員として活動していれば、予定はどんどん埋まっていく。
そんな中で、すべての有権者の声に自分一人で耳を傾けるなんて、とてもじゃないが無理だ。
だからこそ、スタッフに仕事を分担してもらい、より多くの人手で地域への対応を支える必要がある。
議員にとって、事務所というのは単に仕事をする場所ではない。
地域の人たちと政治をつなぐ、大切な窓口でもあるのだ。




