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第三十一話 『意外とお得』

「……ん? お兄ちゃんさん、どうしたの? ぼーっとしてる?」


 目を閉じて考え込んでいた俺を見て、さっきから落ち着きなく辺りをうろうろしていた林主任が、いつの間にか俺の隣までやって来ていた。


 そして、そのまま顎を俺の肩に乗せ、耳元で尋ねてくる。


「い、今どの物件が一番いいか考えてるところです。主任も何か意見ありますか?」


 主任の髪、いい匂いがする。

 大人の女性らしい香りがするのに、仕草にはどこか少女っぽい可愛らしさもある。

 しかも、こんなに距離感の近いお姉さん。

 ……最高じゃないか。


 いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。

 俺はどうにも落ち着かない、少々距離が近すぎる彼女の行動をひとまず意識の外へ追いやる。

 そして、紙に書かれた候補物件とそれぞれの金額を指差しながら、主任に意見を求めた。


「うーん。値段だけを見れば、どれも相場の範囲内だと思う。でも、この物件はこの辺りの治安があまり良くないはず。こっちは……たしか以前、住人が自殺騒ぎを起こしたことがあったような。あと、ここは市場に近いから、時間帯によっては結構うるさいんじゃないかな」


 主任は資料に記載された住所を見ながら、その場所についての記憶を辿るようにして、俺の知らなかった情報を次々と教えてくれた。

 ……聞いておいて本当に良かった。

 最悪の場合、何も知らないまま事故物件を契約してしまうところだった。


「なるほど。じゃあ、この辺りはどれも難しそうですね。ありがとうございます」


 いったん問題点を知ってしまった以上、それを無視して契約するわけにもいかない。

 物件の欠点を指摘され、どこか気まずそうな顔をしている営業マンに礼を言い、近くにある別の不動産会社へ向かおうとした、そのときだった。


「……ちょっと待って、お兄ちゃんさん」


 主任に呼び止められた。

 俺を呼び止めた主任は、手にした一冊の物件カタログをぎゅっと握りしめ、まるで宝物でも見つけたかのように目を輝かせていた。


「……あれ? これ、結構いいんじゃない? 玲華ちゃん、ちょっと見てみて」


 どうやら主任は気になる物件を見つけたらしく、興奮した様子で玲華を呼び寄せる。


「これ、すごくいいじゃん! これにしよう!」


 玲華も物件を見た途端にテンションが上がり、主任と顔を見合わせながら何度も頷き合っている。

 ……そう。

 二人が見つけたのは、俺がさっき真っ先にスルーした、あの色とりどりの内装の物件だった。


「おい。現実離れした考えをお互いに後押しするのはやめてくれ」


 俺たちには、選挙区の有権者からどう見られるかという問題だけじゃない。経済的な事情だってある。

 内装に手間がかかっている物件なら、その分だけ賃料も高くなる。俺としては、そんなところに無駄な金を使うつもりはない。


「実は、その点についてなんですが……お二人が気に入られたこちらの物件、現在ちょうど値下げ中なんですよ」


「値下げ中?」


 思わず聞き返す。


「はい。もともとは、ピンクを基調とした夢いっぱいの少女風オフィスをコンセプトに作られたそうなんですが、蓋を開けてみると、オフィスを借りたい企業の方々にはあまり受けが良くなかったようでして。最近になって、借り手を探すために家賃を下げているんです」


 なるほど。

 少女風オフィス。

 企業には不人気。

 だから値下げ。


 ……まさか、俺が最初に避けた理由そのものが、逆に価格面ではメリットになっているとは。


「それで、値下げ後の家賃はいくらになりますか?」


 俺はすぐさま尋ねた。

 価格次第では……この物件もアリかもしれない。

 何しろ、隣の二人はさっきから目を輝かせっぱなしなのだから。


「……だいたい、このくらいになりますね」


 営業マンはそう言って、白い紙に一つの数字を書き込んだ。

 俺はその数字をしばらくじっと見つめる。

 ……正直、想像していたよりもずっとお手頃だった。


「これ、結構いいんじゃない? さっき気に入ってた物件より少し高いくらいで、立地も悪くない。それに、写真を見る限り、家具の配置や間取り、内装なんかを考えても……かなりお得だと思うよ」


 主任は何度も頷きながら、まるで俺が考えていたことをそのまま口にするように言った。

 確かにそうだ。

 さまざまな条件を総合して考えれば、この物件を事務所として借りるのは、かなりコストパフォーマンスが高い。


「それに、この雰囲気すごく可愛い! 私、好き!」


 玲華もすぐさま同意し、自分にとっての最大のメリットである「可愛さ」を力強くアピールした。


 これこそが、この物件最大の特徴であり、同時に最大の長所と短所でもある。

 他の企業の経営者たちが、この物件にあまり興味を示さなかった理由も、結局はそこにあるのだと思う。

 可愛らしい内装は、従業員の士気や仕事への気分に、多少なりとも良い影響を与えるかもしれない。


 しかし、重要な会議や商談を行うとなれば、話は別だ。

 真剣な話をしなければならない場面では、むしろその可愛らしさが負担になってしまう。

 議員は商売をするわけではない。

 それでも、俺たちが扱うことになる案件には、決して小さくない金額が絡んでくるはずだ。

 金が絡む話なら、やっぱり決まり事や暗黙のルールには従っておいたほうがいいんだろうな。

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