第二十六話 『アイドル(×)として、議員(○)として駆け回る』
「議員さんは、これまでの人生で、後悔して涙が出るほど辛かった経験はありますか?」
「……そうですね。一度だけ、目薬と間違えてハッカ油を目に入れてしまったことがあります。あのときは本当に死ぬかと思いました。今でも、あんなことをしてしまったのを後悔しています」
玲が仕事を受けるようになってから、しばらく経った。
その間にも、すでにかなりの数の番組に出演している。
人前に出て話すことにも、だいぶ慣れてきたようだ。
例えば今も、ラジオの人物インタビュー番組に出演し、パーソナリティを相手に自分の身の回りで起きた様々な出来事について、流暢に語っている。
まあ、玲くらいの年齢では、そうそう深い人生経験なんて語れるものでもない。
とはいえ、雑談くらいならいくらでもできる。
俺としてはかなり笑える話なのだが、あのときは本当に危なかった。
救急車を呼んで病院へ運んだときなんて、玲がこのまま失明するんじゃないかと本気で思ったくらいだ。
幸い、すぐに大量の水で目を洗い流したことと、そもそも目の中に入った量がそれほど多くなかったこともあって、大事には至らなかった。
「そうなんですね。ははは、それは大変でしたね。確かに、涙が出るほど後悔する経験です」
「そうそう、まさにそれです。いやあ、本当に無事でよかったです」
パーソナリティと二人で笑ったり話したりする玲。
その手慣れた様子は、とても政治に関して何も知らなかった素人には見えない。
すでに議員としての……いや、アイドルとしての風格すら出てきている。
各SNSにおける玲の人気は、すでに無視できない規模にまで膨れ上がっていた。
どのプラットフォームでも二百万人を超えるフォロワーを抱えている。
俺たちの国の総人口は、およそ二千三百万人。
国民の十人に一人近くが玲をフォローしている計算になる。
さらに最近では、ネット上でファンたちが自発的に後援会を結成し始めたらしい。
熱心なファンたちは毎日のように掲示板で意見を交わし、玲に握手会を開いてほしいと声を上げている。
それどころか、ファン同士で資金を募り、玲の活動のために寄付しようとする動きまで出てきているという。
……気がつけば、俺たちの想像していた以上に「アイドル議員」というものが形になりつつあった。
さらに、複数の大手芸能事務所からも玲へのオファーが届くようになった。
どの事務所も、玲を自社のタレントとして所属させ、「世界初の政治参加型美少女アイドル」として売り出したいという。
玲の現在の知名度を考えれば、当然と言えば当然なのかもしれない。
しかし、芸能活動が政治家としての活動に影響を及ぼす可能性は無視できない。
何より、政治活動のために始めたアイドル路線が、いつの間にか目的そのものになってしまっては本末転倒だ。
そのため、今のところは俺がすべての窓口となり、各事務所からのオファーは断っている。
「それでは、本日の『議員とお約束』はここまでです。お忙しい中、出演してくださった李議員、本日は楽しいお話をありがとうございました。そして改めまして、国会議員へのご当選、おめでとうございます。これからも社会のためにご活躍されることを期待しています。リスナーの皆さんも、ぜひこれからの議員の活動に注目してくださいね」
「ありがとうございました、パーソナリティさん! そして、応援してくださっているリスナーの皆さんも、本当にありがとうございます! 玲はこれからも頑張ります! 今日も――『みんなの笑顔を守ります!』」
番組の最後、玲はすっかり板についた様子でカメラに向かって笑顔を見せ、決め台詞を口にして締めくくった。
その言葉は最近では、まるで彼女のキャッチコピーか何かのように広まり、やたらと拡散力の高い流行語になっている。
……もはや、本物のアイドルと何も変わらない。
やがて、玲がスタジオから出てきた。
大勢のスタッフの中から、ひときわ小さな身体がこちらへ向かってくる。
俺に気づいた玲は、いつものように手をひらひらと振りながら、こちらへ歩いてきた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん!」
「……一回呼べば十分だから。」
「私、ちゃんと上手にできてたでしょ? 早く褒めて!」
そう言いながら、玲は駆け寄ってきて俺の腕に自分の腕を絡めた。
ちゃんとできてた……のか?
どうにも、何かが引っかかる。
そもそも、アイドルのような活動をさせようと言い出したのは俺自身だ。
親しみやすいイメージのおかげで、人気も有権者からの支持率も驚くほど伸びている。
それ自体は間違いなく大きな成果だ。
だけど――。
一人の国会議員として、ただ大衆の前に姿を見せ続けるだけの、実体のない精神的なシンボルになってしまって、本当にそれでいいのだろうか。
人気だけが先行して、具体的な政治的実績が何一つない。
そんな状態のまま露出ばかりを増やしていくことに、俺はどうしても少しばかり不安を覚えていた。
「うん……まあ、ひとまずよくできた。頑張ったな」
そう言って、俺は玲の頭を優しく撫でてやった。
兄としては、これで正しい。
でも、秘書としての俺は、この場でどうするべきなのだろう。
どうやら、まだまだ未熟なのは玲だけではないらしい。
俺もまた、同じように青臭いままなのだ。
「えへへ」
俺がそんなことを考えて少しぼんやりしている間も、玲はただ年相応の無邪気な笑顔を浮かべ、首を傾げながら俺からの褒め言葉を嬉しそうに受け止めていた。
そんな姿を見ていると、俺も自然と、ほんの少しだけ笑みを浮かべてしまった。




