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第十話 『初めてのリムジン体験』

 玲が部屋を出てから間もなく、浴室のほうからシャワーの音が聞こえ始めた。

 その間、俺もただ待っていたわけではない。リビングを抜けてキッチンへ向かい、サンドイッチなど簡単に口にできる軽食を作っておいた。


「食べ物の匂いがする!もしかして、私の分もあるの?」


 顔を洗って身なりを整えた玲は、漂ってきた料理の匂いに誘われるように、キッチンへやってきた。

 食べ物の香りに刺激されたのか、玲はさっきまでベッドで眠っていた時とは比べものにならないほど元気を取り戻していた。

 いつものような活発な様子に戻った彼女を見て、俺は思う。もし今夜の番組でもこの調子を維持できればいいのだが。


 俺の考えでは、玲がこの政界において最大の武器にできるものは、『若々しい少女』という存在そのものだ。

 少なくとも最初の段階では、致命的な発言さえしなければいい。まずは華やかな象徴、あるいはマスコットのような立ち位置で世間に認知されることが重要なのだ。


「あるぞ。サンドイッチとコーヒーを用意してある。テーブルの上にあるから、好きに取ってくれ」


 俺は手に持った温かいブラックコーヒーを啜りながら、ダイニングテーブルの席に座り、向かい側に玲が腰を下ろすのを見ていた。

 もちろん、彼女の分には砂糖をかなり多めに入れてある。そうでもしなければ、あいつは飲めないからだ。


「そうだ、番組に出る前に、ここのノートの内容をしっかり覚えておいてくれ」


 朝から今まで書き溜めたノートをファイルにまとめ、分厚い資料として整理した俺は、それを小動物のようにサンドイッチをちまちまと頬張る玲の前へと差し出した。


「……またノートなの? 議員になったら少しくらい勉強が減るのかなって期待してたのに、結局こうして見ると何も変わらないじゃん」


「まあ、そうだな。もしかしたら、まだ役職が足りないのかもしれないぞ? なら次は大統領選にでも出てみたらどうだ?」


 玲の愚痴に対して、俺はそう冗談めかして返した。


「えぇぇ!? やだやだ。議員だけでもう十分すぎるくらい大変なんだから」


 玲は俺がまとめた資料をぱらぱらと勢いよくめくりながら目を通していた。その合間にも、恨みがましい視線を向け、頬をぷくっと膨らませてこちらを睨んでくることが何度もあった。


 そうして俺たちはダイニングテーブルを囲みながら、時折資料の内容を確認し、これからの立ち回りについて話し合っていた。


 話し合いを続ける中で、俺は番組の司会者になりきり、玲にいくつか質問を投げかけてみた。

 こうして見ると、俺たちが今やっていることは、試験前に出題されそうな問題を予想するのと似たようなものなのかもしれない。


「とにかく、司会者からの質問にはきちんと答えること。それと、評論家や他党の人間とはできる限り正面衝突は避けろ。分からないことを聞かれた時は、笑顔と軽い冗談でうまく受け流せ。いいな?」

「サー! イエッサー!」

「よし! 新兵!」

 その返事を聞いた俺は、まるで軍隊の上官になったかのような口調で応じた。


 まあ、ひとまず準備としてはこんなところだろう。

 我ながら少し情けない気もするが、昨晩から今まで散々考え抜いた結果、俺が導き出した最善策は――玲には番組で無理に目立とうとせず、上手く流してもらうことだった。


 何しろ、余計なことを言えば言うほど失言につながる可能性がある。中途半端な知識しか持っていない玲に、思いつきで発言させれば、より深刻な問題を招くかもしれない。そう考えるなら、最初から徹底的に避けたほうがいい。


 俺の予想では、番組側が求めているのは、ここ数日の話題の人物である玲がもたらす視聴率だけなのだろう。

 与党側にしても、政治経験など皆無の玲を番組へ送り出す目的は、自分たちの存在感を世間に広めるための話題作りに過ぎない。

 決して、彼女自身にあらゆる政策や問題について深い見解を語らせたいわけではないはずだ。


 少なくとも今の段階で、玲に本格的な政策論や建設的な意見を求めている人間など、ほとんどいないはずだ。


「(ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン──)」

 俺の思考を中断させたのは、玄関から響いてきた呼び鈴の音だった。

「すみません、今開けます。」

 玄関の向こうへ一声かけた俺は、手にしていたマグカップを置き、いったい誰が訪ねてきたのかを確かめるために玄関へ向かった。


「初めまして。党本部より、議員のお迎えに上がる専属運転手として参りました。車はすでに外に用意してありますので、出発のご指示をいただくまでこちらでお待ちしております」


 俺の目の前に立っていたのは、一人の若い男だった。外見だけを見る限り、俺より少し上くらいの年齢にしか見えない。二十代前半といったところだろうか。細身で背の高いその男は、黒いスーツにネクタイという正装姿で、さらに俺には名前すら分からないような洒落た紳士帽まで身につけていた。


 テレビ局までの距離、渋滞を見越した時間の余裕、番組開始前に必要となる準備時間――それらを大まかに考えれば、彼がこのタイミングで迎えに来たのは至極当然の判断だった。


「お待たせしてしまい申し訳ありません。少々こちらでお待ちいただけますか。すぐに呼んでまいります」


 少々失礼だとは思ったが、彼には玄関先で待っていてもらうことにした。そう告げた後、俺は家の中へ戻り、玲を呼びに向かった。


「玲、そろそろ行くぞ。迎えの運転手さんがもう来てくれてる」

「ん? もう来たんだ? ちょっと着替えてくるね。すぐ戻るから」


 玲が部屋着から少し改まったワンピースへ着替え、出発の準備を整えるのを待ってから、俺は彼女の手を引いて外へ向かった。

 玄関先で待っていた運転手に案内され、俺たちは用意されていた車へと乗り込む。


 それは黒いリムジンだった。こんな車を見るのはこの人生で初めてのことで、当然ながら乗るのも初めてだった。


 政財界の人間や名士たちにとっては、こうした光景など日常の一部なのかもしれない。

 しかし、ごく普通の家庭で育ってきた俺たちにとって、それは思わず言葉を失うほどの光景だった。


 特に隣に座る玲は、乗車してからずっと両手を膝の上に置き、背筋をピンと伸ばしたまま固まっていた。

 きっと不用意に動いて、車内の何かを壊したり汚したりしてしまうのが怖いのだろう。

 俺はそこまで露骨ではなかったものの、やはり普段通りに振る舞えるほど余裕があるわけではなかった。


 ……いつか、こんな光景にも自然と慣れる日が来るのだろうか。


 そしてきっとこれから先、俺たちの当たり前や価値観を根本から揺さぶるような出来事は、何度も訪れるに違いない。

 なぜなら、これから俺たちが足を踏み入れるのは、大人の世界の中でも最も激しい駆け引きと裏の思惑が渦巻く、政治という名の舞台なのだから。



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