第六章 陥落
だが、開かなかった。
物凄い風切り音がしただけだった。
「何か、いったい、何だ、何事か」
ジャンは混乱し、困惑した。
そのとき。
凄まじき轟音とともに小屋の上半分が吹っ飛び、壁が二メートルほど残っただけの状態となった。この瞬間、黎明が萌え始め、薄明を孕む空気が清み透る。
二メートルの高さに残った壁の外から、その壁の残骸を越えて、こちらを覗き込む双眸があった。炎えるような雙つ眼は爛々と燿き、瞳孔は縦裂きの細い亀裂でしかなく、無感情で冷酷で非情であった。
風もないのに蛇のように蠢く黒髪、大角のついた漆黒の鋼鉄の兜。
ジャンの息が止まった。根底から恐怖が込み上げ、體体が芯から震える。
鼻尖をふっと鳴らす。嘲るかのようにであった。
蔑むような一瞥のみ残して、向きを転じる。去って行った。
崩れるように脱力する。
「ハア、ハア」
ようやく息がつけた。生きた心地がしない。凄絶なまでの怖ろしさであった。あれは人間なのか。
生命を根底から畏怖させる、人間にもし天敵がいるとすれば、あれではないだろうか。
いったい、外にいた連中はどうしたのか。あまりに静かだ。逃げ去ったのか。そっと扉を開けようとしてが、変形していて、開かない。
「ええい」
半ばヤケで蹴破った。存外元気になったものだと苦笑。
惨たらしい光景であった。
あの異形の魁偉たちが縦に横に皆、真っ二つに斬り裂かれている。
たった一瞬でこれを成し遂げたのか。あの風切り音が、剣で斬ったときの空気を裂く音だとすれば、一つしか聞こえなかった。恐らく、一つにしか聞こえないほど速かったのだ。人間業ではない。
背筋が凍り、再び全身が震えた。
しばらく動けなかった。
生まれて初めて感じる、根底から存在を揺るがすかのような恐怖だった。
『あの、凄絶な双眸、見たこともない。人間じゃない。バケモノだ』
そのとき、彼は気がついた。
あのバケモノが背を向けたとき、向いていた方向。
「聖都だ、まずい」
慌てて周囲を見廻す。自分が扱えそうなサイズの剣は? 楯はないか。
急いで拾い、抱える。また見廻す。死体から帯を解き、剣を背に結びつけた。その上に楯を被せ、別の帯で縛る。
「どうか、どうか、ご無事で」
普段なら十キロメートルほどの道のり、走り切って四十分ほどであろう。一時間以上かかった。森を抜けたときからすでに黒煙は見えていた。
「バカな、そんな、いくらあいつがバケモノでも、守備軍もいる聖都が、たった一人の敵に」
凄まじい破壊音と阿鼻叫喚が聞こえる都城門の前まで来ると、大きな鋼鉄の分厚い扉が薄い金属板のように破られ捲れ上がっていた。
「信じられない、どんなことをしたら、こんなことができるのか」
恐怖、動揺、怖しい不安に駈り立てられ、考えることもできず、その暇もなく、ジャンは聖都の中へ入る。
人力で成したとは思えないほど、聳える組石造建築がいくつも破壊されていた。人々の骸がバラバラに散って重なっている。確かにこんな破壊力でやられたら、人体など一溜まりもない。
「怖しい、大虐殺、あゝ、どうかご無事で」
火災が天を焦がし、黒い煙があちこちを蔽う。
生きている人間を見かけない。
「そんな、数十万人はいるはずだ」
王城へ向かう、急ぐ、急ぐ。もはや家族が離散していない。王女への誓いを果たす。王城へ急ぐ、急ぐ、只管急ぐ。
城壁の前に来た。
王宮は都城の聳える壁に囲まれた都市の中心にあって、さらに濠と高い城壁とに囲まれているのだ。
濠を渡る橋はなく、王城の大門の扉が外へ向かって倒れ、そのまま橋になる仕組みであった。門扉は倒れておらず、そのまま突き破られていた。五十メートルもの濠をどうやって渡ったか、まさか飛び越えはしないだろう、いや、しかし、こんな大惨事を独りで一時間か一時間半以内に起こせるあのバケモノならば。
「どうやって渡ろうか」
万全ならともかく、今は武具をつけて渡れる自信がなかたった。
そのとき。
「あゝ、あああ」
城壁に立つ者がいた。
物凄い形相でこちらを睨んでいる。
逆光を浴びて黒い上にも黒く見える巨体。
大角の兜のシルエット、黒髪を蛇のように靡かせるバケモノ。
「あいつだ」
右手に漆黒に燃える炎と黒龍を絡めたリヤーマ・ネーグロ。
右手には何かを握っている。
それは手提げ袋のようにも見えた。
逆光なのでよく見えない。
長い紐の束で吊るされたメロンのような、球体に見えた。
メロンのように丸いそれは、逆光で真っ黒にしか見えず、何であるかの判別ができない。
そして、燦々と青いダイヤモンドのように熾え燁く雙つの眼を睜いていた。




