第五章 暗殺
しかし、エスカテリーニャは怯まなかった。
「不義? 不貞? いかに父王とは言え、そのような侮辱の言葉は赦されません。お父様のお考えは全てにおいて間違っています。真に愛しているなら、その本質を見抜き、そして、信ずべきです。でなければ、生きることに意味も価値もない。
虚しい沙漠です。
はっきり事実を申し上げます。
彼の双眸の光燦が全てを証明しています。
近衛の聖騎士ジャン・マータは無実です。そうです、無罪です。従って、マータ家の騎士への訴えは冤罪です。
もし、ベンジミールの言葉を信じて、高貴なる精神のジャン・マータを疑うならば、お父様の人間洞察こそ最も疑わしきものでしょう」
「何だと、王に向かって、その言葉、その言葉っ!」
「正義の前に、王も王女もありません。大事なことは、大切なものは・・・真実です。真実正義こそが求むべきものの全てです」
「それ以上言うならば、我が娘とは言え、赦さぬぞ」
「いいえ、言います。
正しいことを言うことこそあるべき正しい道です。真の愉悦、真の幸福です。この世の価値観は顚倒している。
お父様は悪しき者たちの讒言を信じて、マータ家を破滅させました。
聖騎士を解放し、その名誉を回復して、かつ、同家を復興させるべきです」
唐突に理性に眼覚めたかのよう、国王は鼻息を深くし、ゆっくり興奮を鎮めた。当初の目的を思い出したのだ。
「よかろう、解放はする。国外追放だ。名誉は回復せん。
それだけだ」
王は背を向けて戻って行く。エスカテリーニャは悪い予感を覚えた。走る。
正午、ジャン・マータは腰巻きだけのまま、血だらけ糞尿まみれのままで都市の市壁の外、十キロメートルほど離れた森の奥深いところへに投げ出された。場所は国外ではないが、誰も助けることが許されなかったので、むしろ、国外より状況は悪い。国外ならば、哀れんで救助してくれる人がいたであろう。
動くことができない。このままでは凶暴で大型の狼や熊の生き餌になり兼ねない。
その頃には、王は自室に戻っており、暗き部屋で月光の窓に一人立ち、遠望して満足げに微笑んだ。王女の訴えがなくても、最初から国外追放にするつもりであった。
そうすれば、ベンジミールが刺客を差し向けることがわかっていたからだ。
「良いか、この私が下賤のお前に直截命令することなど、あり得ぬこと、あり得べからざること。命を賭して、絶対に成し遂げよ。失敗は死しても赦さぬ。良いか、絶対必殺だぞ」
「御意」
凄まじき魁偉の、尋常ならざる異形の荒武者が平伏する。鬼面は羊のようなツノのある兜と繋がっており、十三人いた。
命じた若者は荒間からつま先まで黒い布で覆い、少しも正体を見せない。わずかな隙間から視界を確保しているらしいが、外からでは全くわからない。
ジャン・マータは橿の木に、必死に縋って、立ち上がろうとした。力が入らない。というよりは感覚がない。繋がれていたせいで、すっかり腕や肩がダメになってしまっていた。
「ぅう、あゝ、ううう」
痛みと苦しみも、そして、立ち上がろうと足掻き藻掻き力むため、呻きが漏れた。すでに日は傾き、黄昏時が迫っている。
そのとき、二つの黒い影が近づく。全身を黒い布で蔽っていた。
「ジャン・マータ」
聞き覚えのある女性の声。
「まさか、そんな」
「静かに」
「いや、いけません」
「静かにしなさい」
「いや、いけません。いけません、お身を滅ぼします」
「これは命令です。ここにいる騎士は信頼のできる者です。他の者はたとえ私の命令であっても、王を怖れて協力してくれないでしょう。私は彼女なら、完全に信用できる」
エスカテリーニャと一緒にいるのは、彼女の幼馴染の近衛少女騎士ジェンヌであろうと、ジャンには察しがついた。もしジェンヌが断ればエスカテリーニャは独りで行くであろう。それがわかっているから、ジェンヌは来たのだ。一族の滅亡覚悟で。
ジャンは言った。
「いや、だめです。君もだ、ジェンヌ。絶対にだめです」
「さあ、ジェンヌ、運ぶわよ。
ジャン、一時的にでしかありませんが、取り敢えず安全な場所に運びます」
「あゝ、王女様、いけません」
ジェンヌは決して力弱くはなく、又ジャンは痩せ細って軽かった。
すっかり夜になって、鬱蒼たる森は真っ暗になり、一歩進むにも警戒しながら、微かな物音にも怯え、歩む。
「大丈夫、大丈夫よ、でも、注意して、何も見逃さないで」
ゆっくりゆっくり進む。音を立てずに。
突然。
カサっ、草を踏む音。
「あ」
それは子うさぎだった。草の中へ逃げ消えていく。
「あゝ、びっくりした。さあ、少し急ぎましょうか」
ようやく見えてきた。
小さな丸太小屋だ。
聖なるアカデミア天領の西方、山岳地帯にあるエルロイペは、二つの大きな瀧に挟まれている。
数千万年前、その巨大な二つの瀧は超巨大な一つの瀧であったが、地殻変動で岩棚のように突き出た強大な大磐によって途中が二つに裂かれたのであった。
すなわち、瀧は上部で一つ、中間で二つに、その下で再び一つになっているのである。
人工数十万の大都会である聖都エルロイペはその岩盤上の大都市であった。瀧の水を利用して大きな環濠をなし、城壁を守っている。それほど巨大な岩盤であった。又、それほど巨大な瀧であった。
聖都を挟む二つの大瀧のそれぞれ外側に、広い岩棚が桟道のようにあり、平地に続いている。
岩盤と岩棚を結ぶ宙空に架かったその大橋を渉れば、瀧の外の世界へ出らるようになっていた。
橋を渡って岩棚へ渉り、岩棚を下る。
小さな森がいくつかあり、そのうちの一つの森、アリアドネの森に入る。
森の中に使われなくなった番人小屋があって、今見えているのは、まさにその小屋であった。
鍵は掛かっていない。真っ暗な中に横たわらせる。森は生い繁る木の枝で深く翳っていても、かすかに月の光が届くため、まだしも眼が利いたが、小屋の中は漆黒だった。
「灯りを」
魔法の小さな灯火を灯した。
「長い時間使えば見つかるリスクが高まる。手早くやりましょう」
傷の手当て、包帯、薬、そして、水と食糧。
「これでしばらく養生して」
ジャンはほんの少しだが、命が蘇るのを感じた。生命は生存を超越するが、その跳躍力は生存にあるのだ。ジャンは初めてそう悟った。神の真理が躬に宿るのを感じる。
彼は息も絶え絶えに、
「もう、もう大丈夫・・・です。早く戻って・・・ください。お城へ。誰にも気がつかれないうちに」
王女エスカテリーニャは歎息し、
「ええ。そのようにします。もうできることはありません。後は、あなたの運命に任せるしかない」
「王女様、心より感謝申し上げます。
このような躬に余る光栄、深く深き慈しみ、感謝し切れません、幸福の余り死にそうです。これ以上の幸福はありません。あゝ、生命を与えてくれた神に感謝いたします。
もうこれ以上、何もいりません。全ては報われました。家族の破滅さえ光燦に満ちあふれ、正義と名誉とに飾られました。終わりのない真理の下で、燃えるように燦めき燿いていています。燦々と光芒を放ち、赫奕と。
さあ、今は早く去ってください」
「偉大なる騎士よ、あなたには今、神の恩寵が降りたのです。永遠の生命と、永遠の真実とが。
生き永らえてください、あなたの永遠の武運を祈ります。
それでは、ジャン・マータ。
私は毎日、祈ります、命ある限り」
「エスカテリーニャ様、永遠の忠誠と永遠の真実の愛を誓います。ありがとうございました。さようなら、もうお会いする栄誉を賜る機会はないでしょう。どうか、ご無事で」
二人は去り難くも去って行った。
ジャンは独りになった。眠ろう、どうなってもいい、もう眠ろう。そして、生きていれば力を取り戻そう。そう想って深い眠りに就いた。
夜明け前。蒼き時。
ジャンは物音を皮膚で感じた。
どうにか起き上がれた。かなり恢復している。
しかし、剣がない。窓から覗く。ガラス窓ではない。蓋のような板を跳ね上げる形式だ。それをかすかに細く持ち上げた。
いる。
異様な聯中だ。禍々しい死臭を感じた。暗殺者、そう実感した。言葉も概念も使わずに人は物事を直截感受できる。
どうすべきか。剣はない。このままここに隠れて、やり過ごすしかない。ここを見ないことを祈って。見ない確率は低い。普通見るはずだった。
実際、一人が近づき、扉に手をかけた。そうさ、今、全てが終わる、何もかもが。そう想い、微笑む。もはや、これまでであった。生きる術はない。




