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第四章 地下牢の祝福

 ジャン・マータは息も絶え絶えになり、魂も肉体も絶望の底にいた。


 そこは地下牢であった。


 城の下、建物の基礎部分より深い處。

 ただ、岩盤を削っただけの場所。


 ジャンは左右の腕を広げた状態で、岩壁に留めた鎖に繋がれている。

 血が下がって腕や肩が痛苦しく、呼吸も困難だった。


 しかも、灯りはなく、真っ暗だ。真っ暗だと空気がないかのような錯覚に襲われ、余計の呼吸が苦しくなる。実際、酸素があるのに窒息死してしまう人のいた。


 身動きができず、糞尿はそのまま垂れ流しである。最初の城が建って以来(当時は砦だった。その後何回も建て替えたり、増改築したりした)、何百年もの間、何千もの人の糞尿が染みて乾いて蓄積されていた。


 岩盤は冷たく、腰巻き以外は裸身の足や背中が冷えた。

 一日一度の食事のときだけ、小さなランプが灯され、汚い皿に小さく盛った残飯を看守が持って入って来て、さも汚らしいと言わんばかりに(実際、臭くて汚らしい食べ物だし、皿も牢も臭く汚らしい)皿ごとジャンの顔に押しつけた。彼はそれを手を使わず犬猫のように食べなかればならない。早く終わらせたい看守は十秒ほどで止めてしまうので、瞬時に頬張らなければならない。

 咀嚼のための時間が数十秒与えられ、その後、コップで水が流し込まれた。さすがに食べ物を詰まらせて窒息させては罰せられるので、早く去りたくても数十秒は待つのだ。


 最初、全く要領がわからないジャンはいきなり乱暴に顔に押しつけられ、驚き戸惑うばかりで、食べることも飲むこともできずに初日が終わった。


 一切光のない闇で、汚臭だけが空気の存在の証であった。何度も窒息の恐怖に襲われたが、どうにか命だけは喪わずに済んでいる。


 自分の糞尿の汚らしい感触に食べてもいないのに嘔吐した。


 時間の経過が全くわからない。昼なのか夜なのか。永遠のように長い時間のように感じたが、まだその時点では二日と少しであった。


 人の声がした。灯りが見えた。「どこですか」


 牢番ガッシュは驚く。

「誰だ」

 こんな場所に人が来るはずがない。


「私です」

 自らカンテラを持ちながらも、その姿・衣装は高貴な身分の証であった。

「あ、貴方様は、いったい」

「エスカテリーニャです」


 そう言われて、すぐに「はい、そうですか」とは言えなかった。

 間近で見たことなどないし、声を聞いたこともない。


 しかし、その凜とした存在が全てを明晰に語っていた。この人こそ光燦なる王女エスカテリーニャ以外ではあり得ない。

 そう想えば、かつて遠く見た姿と一致しなくもなかった・・・・・・。

 何よりも、闇でも燦々と水色のダイヤモンドのような(かがや)きの双眸、エスカテリーニャ王女以外にはこの世に存在しない。


「あゝ、王女様、なぜ、このような穢らわしい、汚い場所に。なぜ」


 エスカテリーニャは毅然としていた。それは王家が持つ威厳である。

「通しなさい、これは命令です」


「し、しかし、王女様、王女様をこんな汚れた場所にお通ししたことが王様に知られてしまったら、私は家族もろとも処刑されてしまいます」


 エスカテリーニャは眉も動かさず。

「私が命懸けで弁明します。貴方が死ねば、私も死にます、末代に渡って、命ある限り、貴方を守ります」

 しかし、ガッシュは命懸けで抵抗した。

「いいえ、できません。そうはおっしゃっても、きっと、私は救われないでしょう。我々の命など、木の葉よりも軽いのです。王女様にはおわかりになりません」

 本来、そのような非難がましいことは口に出せぬものなのだが、追い込まれて必死であった。

「では、仕方ありません」

 彼女はハンカチーフで口鼻を塞ぎ、ガラスの小瓶の蓋を開ける。

 薄すらとミストが立ち、牢番は意識を失った。


 混沌とした朦朧たる意識の中で、黎明が差したかのように、ジャンはまぶたを上げた。

「あ、あゝ、おゝ」

 信じられない。

 こんな場所に。

 しかも眼の前に存在していた。

 燦めく眸の王女エスカテリーニャが。


 あまりのことに痛みも苦しみも忘れ、呆然とする。

 カンテラの灯火を掲げ、王女は息を呑む。

 凄まじい腐臭の中、糞尿も垂れ流しで鎖に両腕を繋がれ、ぶら下がるように項垂れ、鞭打たれた傷に打ちひしがれた裸体、あの美しかった少年が。

 あまりにも酷い。嗚咽する。


「あゝ、私のために、私のせいで、こんな」 

「そんな、王女様、いけません、こんな汚れの場所に。あゝ、もったいないお涙。

 どうか、早くこの場所から、お出になってください。

 僕のような卑しき者に、そのようなお言葉、あゝ、あり難過ぎて、もはや死んでしまいそうです。この身に余る、分不相応な憐れみをいただき、感謝の言葉もございません」


 天にも昇るほど幸せを感じた。


「貴方は無罪です。

 これは明らかな冤罪です」


「あり難き幸せ。

 しかし、王女様、私にはもう帰る場所がありません。

 家族は破滅したと聞いています。一度失われた名誉は元には戻りません」


「私が、この私が取り戻して見せます」


「王女様、そのお言葉だけで十分に幸せです。まもなく私は死ぬでしょう。もう何もご心配は入りません」


「そんな理不尽な。そんな理不尽は赦せない、赦さない」


 そのとき、後ろで物音がした。振り向いたが、もう何も見えない。誰かが走り去る足音が遠くなって行くのみ。


 王女は思った、『見張られていた。誰かがこの様子を見に来て知らせに行ったに違いない。早く手を打たないと、先手を取られてしまう』

 そして、ジャンに向き直り、

「今はここを去ります。

 私を信じて待っていて。そして」


 ジャンの頬に手を当て、その額に祝福のキスを与えた。ジャンはまさに天にも昇る崇高な恍惚に囚われる。


「必ず生き残りなさい。絶望はない。そして、私に永遠の忠誠と真の愛を誓いなさい。

 必ずこの世を美しい世にしましょう。では」


 エスカテリーニャは地下階段を小走りに上がり、王城の地下室に出て、階段を上って地上階に出ると廊下を急いだ。そこでこちらへ向かってくる王とばったり出会った。

 王の表情は怒りに滾っていた。妻への愛は喪われていても、強く愛する愛娘である。それゆえに憤りは激しく爆発していた。

「不義、不倫、不貞操、王女たる者が何たるざまぞ、この不貞者が、何をしていた。この恥知らずめ、おのれ、父の愛を、この父の愛を、王たる父の愛を裏切りおって! 赦さぬ、決して赦さぬ、赦さぬぞ」


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