第三章 ジャン・マータ
ハグレーポルガ王国軍潰走の知らせは、直ちにヘロルド王の元に届く。王は天を仰いで神に感謝し、そして、深い感動に包まれた。斥候の齎したその知らせの中には、ジャン・マータの英雄的行為についても含まれていてからである。
「何と、あゝ、全く信じ難い、その騎士は、いったい、今いずこへ」
「杳として知れず。一宿一飯のご恩義に報いさせていただきましたとお伝えくださいと斥候兵に言い残して去られたのことです」
「一宿一飯の恩義で数千の兵を潰走させたというのか、たった独りで。何という、凄まじい英傑か。想像をも絶する。天下無双とはこのことを云うか。
あの怪物、メタルハートにも匹敵するが、彼は正義の士だ。信じ難い、今の世で。稀有なことだ。
おゝ、ところでその偉大なる英雄、ジャン・マータとは、何者なのだ」
王の問いに答えられる者はいなかった。
その頃、アンニュイは遠く離れた町の酒場にいた。
いつものように物憂げに表情で。
その哀しげな面立ちゆえ、〝アンニュイ〟という綽名がつけられている。
美しく女性のように流麗な顔は、古典期に完成された大理石の彫像のように整い、玲瓏ですらあった。
身の丈4.25キュビットの體軀も柳葉のよう、たおやかで、明るい金の髪も柔らかく長くて絹糸の艶がある。(1キュビット=44.8センチメートル)
それでいて、天下無双の裂士である。
彼ほどの騎士が無為に時を過ごすゆえんがあった。
それはその端緒から話さねばならない。
アンニュイの生まれは、アカデミア天領の外周にあるいくつかの聖都のうちの一つ、西側の領域に栄えた聖エルロイペ王国の聖都エルロイペであった。彼はその国の古き貴族の家一員として生を受けたのである。
ジャン・マータは古代から続く高貴な家柄に生まれ、その上にも増して世にも稀なる美しき少年であった。
齊暦八九六四年に生まれたときから、既に玉のように燿かしく、誰もが思わず微笑むほどに、愛くるしい嬰児であったという。
言葉を概ね解するようになると、乳母の読み聞かせる書物に深く心奪われ、恍惚としたり、眼を輝かせたり、丸くしたり、またときには深く憂うかのようでもあった。
やがて、父オノレ・マータ伯爵の選んだそれぞれの部門の優れた家庭教師から習うようになる。学を悦び、剣を楽しみ、条理ある話を好み、倫理を尊び、その精神は清廉であった。
七歳のときに聖騎士の学園の年少学部に入学した。たくさんのお祝いが届く。
早くも熟達して、十を過ぎた頃から騎士の試験を受け、一年後、晴れて若干十一歳の、すらりとした天使のような少年騎士となった。
その姿は神々しく学園外でも「神に愛でられた者」と囁かれるようになった。
後にジャン・〝アンニュイ〟・マータと呼ばれるようになった天才騎士も当時は未だ夭き騎士であったが、その頃から既に、神の特別な恩寵を得たかのごときであったのである。
天賦の才に恵まれ、剣技は精妙を極め、神学にも通じて妙義を得ていた。そのため、十五になった年に、聖騎士の位を叙された。
その頃は身の丈が4キュビット(エルロイペ王国において1キュビットは1.47フィート、44.8センチ。従って、彼の身長は約179センチメートル)近くあり、父の背丈にわずか足りないくらいであった。髪の毛は絹のように滑らかな艶のある明るい金で、双眸が南の島嶼の海のような碧であったため、宮廷の婦女子や諸侯の子女の間で噂が広がり、持て囃された。
噂はやがて侍女たちを通じて女王エレクティレアの耳にも入り、一眼見んと想い、王の閲兵の儀の際に……
澄み切った初夏の蒼穹に翳された閲兵壇上の天蓋の下、王の後ろに控えながら、
「その噂の騎士とやらは、いずこに」
と傍に仕える女官たちの一人に尋ねた。尋ねられた女官ジョゼフィーヌは、
「女王様、あちらにございます」
目立たぬよう、そっと指差す。
その方向へ眼を遣ると、何やらそこだけが光り輝いているかのよう。
碧き双眸、赤き唇、白皙の滑らかな頬、眩い金髪の美少年がいた。
女王は驚嘆し、
「おや、まことに。何と言うことか。噂に違わぬとは、このこと。素晴らしい騎士だ。それにしても、あゝ、信じられぬほど美しい。
この世のものか、と疑わんばかりの天上の美よ、まるで、あそこにだけ光があふれるかのようである」
その姿の神のごとき清らかさを愛おしみ、王妃は第一王女の近衛たる少年聖騎士となるべく、そっと王ザブレクツに推挙したのであった。
王は兼ねてより高潔の士と聞いていて、その少年のことを充分に知っていたので、快諾する。
直様、使者がマータの家に赴き、除目の日に参上するよう命ぜられ、聖騎士団の副団長レグゼブルに伴われ、数名の少年らとともに、王の御前で勅命を受け、正式に近衛聖騎士団の少年部門とも言える近衛聖少年騎士団の騎士に任じられた。
その名誉に伯爵家は歓喜し、一家は幸せの頂点であった。
このことを祝し披露するため、父伯爵の主催による祝賀の会が開催され、親類縁故・古き知人をはじめ、恩顧の師や誼みの深い貴族たちが招かれる。
まことに華やかで盛大であった。
当然、俗なる世の眼の妬み嫉みの対象ともなった。
古き良き家柄とは言っても、王にも重んじられる大貴族らとは異なり、やや格下、しかもここ数十年は零落し、その気高さや潔癖さが今の世には少し馴染まぬ家風にあれば、何かと辛き目に遭ったものである。
後には、さらには長身となり、凛々しき騎士となる彼も、当時は未だ華奢であった。いや、華奢というだけでは足りない。女性のように嫋やかでしなやかに、か細くあった。
顔も細く崇高で、白い皮膚は凜と煌く大理石のよう、唇は生まれながらのあざやかな朱、眸は大きく聖なる青碧、まつ毛は長く、蝶の触角や花の雄蕊のように跳ね上がっていた。
いつも憂いに満ちた眼差しで、微笑みながらもどこか哀しげ、人はいつしか彼のことを〝アンニュイ〟という渾名で呼ぶようになる。
王女様の近衛を任務とする少年聖騎士ジャン・マータは真摯にその勤めを果たしていたが、時折、憂鬱な表情で深くもの想いに耽ることがあった。
その日も薄曇りの空のように物憂げな表情で、哲学の授業を受けていた。
哲学が嫌いな訳ではない。むしろ、好きな方だ。ただ、今は心が離れていることは確かであった。
体系的で、あたかも、数学のような哲学からは、遠く遙かに。
むろん、学としては、体系的な方が正しい。手順を踏めば誰でもある一定の高みまでは到達できる。それが体系立てられた学というものであった。その精緻細密をジャンは愛してさえもいる。今でも。
それにしても、春の聖エルロイペの都は花の季節、心地よい薫風が香っていた。
ジャンが窓の外に見惚れるのも不思議はない。何もかもが鮮やかで、輝くような華やかさ、全て人の心に優しかった。
その微風に繊細な金色の髪は柔らかい絹の細糸のように、こまやかにさらさら靡く。
腰も覆う長さ。髪が揺れるたびに艶が移動する。
きめ細かでなめらかな膚が流麗で白く高貴な、それでいて少年らしく初々しい顔立ち、その上に名誉ある王女の近衛である少年聖騎士ともなれば、彼がまだ十五歳であったとしても、少女たちならずとも心騒ぎ、ただ歩めば侍女たちがささやく、「見て、彼よ」「歩いているわ」「素敵、あゝ、神様」
赤髪で尊大強情なウィリアルム・ソンダーイクなどにはそれが腹立たしい。
「惰弱な」
休憩時間。
「おい、ジャン、俺と勝負しないか」
ウイリアムが声を掛ける。
「でも、ビル(ウイリアムの愛称)、勝手な試合は禁じられているよ」
「試合じゃないさ、遊びだよ」
「でも、練習剣が今はないよ」
「その腰の剣でいいじゃないか。本気じゃないから大丈夫さ」
「真剣で! だめだ、危な過ぎるよ」
「へ、臆病者め、カッコばかりさ」
美しい鞘から剣を抜く。
「ビル、いけない」
剣が振るわれ、ジャンのカフスを切った。
「ちやほやされて、いい気になりやがって、生まれつきじゃないか、顔なんて。何の苦労もしないで。弱っちくちゃ騎士失格だ」
ジャンは理不尽な侮辱と暴力に対して込み上げる怒りを抑えた。
「こら、お前たち、何をやっている」
教官の声だ。
二人は処罰を受けた。
「ちくしょう、ジャン・マータのせいで」
ウィリアムは逆恨みして、両親に告げた。「悪いのはジャンだ」と。ソンダーイク家もまた古くからの名家で、家の勢いも強く、王とも近しい。名家であっても、衰微しつつあるマータ家とは大違いであった。
ソンダーイク伯爵の訴えを受けて、聖騎士団はジャンに一ヶ月の謹慎を命じた。屈辱であった。
校長から謹慎の処分を受けて騎士団附属の学校から自宅へ帰ろうとするとき、マルタがジャンに囁いた。
「おい、気をつけた方がいいぞ」
ジャンが訝しげに、
「何を?」
「昨日、ベンジミール様がビルと話し込んでいるのを見た者がいる」
「それが、何で?」
「わからないか、陰謀だよ」
しかし、謹慎期間中は何も起こらなかった。
謹慎が明けて、久しぶりに学校へ通い、同時に近衛の仕事を再開した日、ジャン・マータは以前のとおり、庭を巡回していた。
それは概ね決まった時刻だった。
瞑想に耽っている。美しい花々を眺め、なぜ、美しいのかを思う。これもロゴスの機らきか。
ふと、気がつく。
「おや」
そこで足を止めた。
絹の布か。
身を屈める。ハンカチーフのようであった。それも高貴な。
「誰かが落としたのか。まさか曲者ではあるまい」
拾う。
えも言われぬ芳しさ。尋常ではない、尊い香りであった。
「ああ」
思わず陶酔を覚える。そして、あろうことか無意識に鼻尖に近づけてしまった。遠目にはハンカチーフにキスするようにも見えたであろう。
突然、女性の悲鳴が、
「きゃあ」
驚いて横を見やれば、王女様の次女。すると、これは……
王女が落としたハンカチーフを次女が拾いに来て、その場面を見てしまったに違いない。すぐにそう覚った。
ジャンはすぐに近衛に連行され、尋問された。
彼はありのままを述べた。処罰は免れない。覚悟を決めた。だが、想像を超えた厳罰が待っていた。
「これは」
彼は思わず顔を引き攣らせた。地下牢への入り口。日の射さぬ、暗く臭い、腐臭と糞尿の匂いのこもった地下牢。腐りに繋がれて排泄は垂れ流し、掃除など何十年もされていない、死した者の腐臭も染み付いている、真っ暗な冷たい岩壁の地下牢。
恐ろしさのあまり震えた。それにあまりにも酷い仕打ちだ。人格を否定した処遇、騎士に対するものとは思えぬ不当な扱い、人殺しでもこんなところにはなかなか入らない。
「なぜ、僕が」
彼は知らなかった。
ベンジミールが母を通じて激しく訴えたのである。
「王女様のハンカチーフにはイニシャルがはっきり縫い込まれています。誰の眼にも晰らか。彼は知りながら唇を近づけたのです。匂いを嗅いだなど嘘です。
もっと、疑うならば、慕うあまりに盗んだのかもしれません。王女のお側に侍ることができる職務をいいことにして。
彼は従前から王女に道ならぬ恋慕をしておりました。私は知っております。近衛の騎士にありまじき行為。王女を守る神聖な任務を負いながら、神聖なる王女様に姦淫の罪を犯すなど」
王は激怒し、ジャンを拷問した。一族はあまりの不名誉に社交界はおろか、外へも出られなくなり、父は失意で病に斃れ、母は自害、兄弟は離散して貧困の道に堕ちた。
しかし、実際、ハンカチーフを盗んだのは、口説いた侍女に手引きさせて忍び込んだベンジミールに他ならなかった。なお、その侍女は口封じのため、毒殺されていた。
ジャンの噂を聞いて、王女は自らのせいであのような高貴な騎士を破滅させてしまったことに心を傷め、強く憐れみを催し、
「あの高貴な騎士がそのようなことをするはずがない」
そして、口にこそしなかったが、ベンジミールの讒訴だと察した。はっきりとそう考えたわけではないが、恐らくは妬み嫉み、と漠然と感じていた。
王女エスカテリーニャは凛たる面持ちとなり、美しい顔を堅くして意を決す。




