挿 話 或る日
美しきエスカテリーニャ、聖エルロイペ王国の王女、その神々しき燦めきは絶世と言われた。
その上に、その魂の高貴、その優しさ、慈しみの心の深さ、傷つき哀しみ苦しむ心の癒し手、太陽のような御心が、何よりも燁く美しき人、人の世にあるべき真実そのもの。
今は天に召されしその人の、魂の安らかならんことを祈らずにいられない。その最後の精算は筆舌に尽くし難く、今も我が魂魄は啜り泣く。
今はそのことは言うまい。まだ、そのときではない。
美しい想い出だけを思い出したい。蒼く澄んだ聡明な双眸、その清みて純みたるだけを。
あゝ、あれほど美しかったのに、紛れもない正統な王の娘であったのに、王の愛妾エスメラルダの娘ら(彼女らも最初はエスメラルダに唆されてのことであったが)の悪意、憎悪、嫉みに晒され、鬱悶たる想いに沈むこともしばしばであった。
しかし、まだ思春期の少女であっても、誇り高き王女は毅然とし、明朗さを失うことはない。
内面からも光る美貌で世に遍く知られていたため、十一になったとき以来、近隣諸国にも名が轟き、各国の王家から縁談の申し込みの絶えることがなかった。
むろん、王家の婚姻は政治の意味が強く、美貌など関係ない。
されども、いかに王家の結婚に恋愛など関係ないと言っても、当人の意向を全く無視しては上手く行かぬゆえ、いずれの国もその国の王子が受け入れ易い王女を選ぶ。
すなわち、魅惑的な婦女子であった方が話を進めることが容易いため、選択肢としてエルロイペのエスカテリーニャが多くの名家から選ばれたのである。
さもありなん、聖都エルロイペを擁するエルロイペ王国は家柄尊き古き名家であって、栄華を極め、繁栄し、殷賑であり、財に富み、従って軍も強大であり、権力者たちの望むものの全てがあった。
十五のジャン・マータが着任したとき、王女エスカテリーニャはわずか十二であった。その高貴なる気品は既に近づくことさえ憚られるほどであった。
その頃、王の愛妾であったエスメラルダの長子ベンジミールは十六であり、美しきエスカテリーニャを恋慕していた。
儀式のたびに、王女の周囲を装飾のように近衛聖少年騎士団が囲むが、美しき者と名高いジャン・マータの上に王女の眼が注がれるのが気になっていた。
ある日、無作法にも、王女が侍女たちと庭の噴水近くで、人に見られずに戯れ笑いさざめく傍に、そっと近づく。
本来ならば、庶子が嫡子に向かって対等に話し掛けることなどできるはずもなかったが、王の寵愛を一身に受けて栄華を誇っていたエスメラルダとその息子・娘たちは思い上がっていた。
噴水の盤のふちに腰掛ける王女に囁く、
「王女様にあられましては、天地の理に適い、神の與えたもうた美をまとい、臣下を始め民人に至福を降り注ぎ、意に適わぬものとてなく、まことにご機嫌麗しゅうして、祝着至極にございます」
「驚きましたわ、ベンジミール様、このような女の戯れの場に殿方が」
「大変失礼いたしました。母を探して、つい庭の心地よさに惹かれ、迷い歩くうちに楽しげなお声が聞こえたものですから。天使の声に惹かれる者のように、知らず知らずのうちに推参した次第でございます。
どうか心弱気者にお赦しを」
「かまいませぬ、同じ父の血を受け継ぐ者。人としては、言わば、兄妹のような間柄ですから」
「ご寛容なお言葉、感激の極み、感謝いたします」
「いいえ。
それにしても、人眼にはどのように映るやも知れませぬ、どうか速やかにお立ち去りいただきたく思います」
「むろん、否を言うはずもありません」
「では、ごきげんよう」
「はい、王女様に神のご祝福がありますように」
そう言って、立ち去るかに見えたが、くるりと振り返り、
「ところで、王女様」
「何でしょうか」
エスカテリーニャは訝しげにそう問うた。
ベンジミールは作りものの笑顔で、いかにもわざとらしき口調で、
「いえ、何でもありません。
ふと、思ったのですが、王女様にあられましては、最近、近衛のジャン・マータを特にお気になされている御様子で」
「何をお戯れ申しますか。ベンジミール様。さようなことはありません。母の選んだ美々しき騎士、噂に高きジャン・マータを珍しき者と想いつつ、興味深く眺めたことはほんの一度、ありますが」
「さよう、いやいや、そうでありましょう、さぞかしさようでありましょう、さぞかし。たわいもない、少しばかりの戯れ言です。お気に遊ばすなかれ」
そう言って、何事もなきかのように去った。
その面相には邪悪な翳りが凄絶に泛んでいた。
齊暦八九七九年のことであった。




