第二章 神剣『霓の稲妻』
ジャン・マータの神剣『霓の稲妻』の凄まじい威力。
ジャン・〝アンニュイ〟・マータは白銀の龍馬を疾駈させていた。
龍馬とは、龍神と駿馬との間に生まれた神獣で、馬の輝かしい毛と龍神の鱗とを持ち、螺鈿のような艶で底光りする。蹄の代わりに三指乃至五指の龍爪があり、鬣は獅子のように靡く。一時間に千里(四千キロメートル)を逝く。
国境近くまで来たとき、その惨状を眼の当たりにした。
数千の死骸の山。まさに黎明の時刻、曙光が惨たらしく照らす。
次第に流血で染まる大地が照らされて燃えるような強烈な茜を帯びた。
アンニュイは確信した。
「これはジン・メタルハートの仕業に違いない。私にとっては千載一遇のチャンス。
しかし、この兵士たちには可哀想なことをした。私にせいで犠牲になったも同然だ」
眼にも止まらぬ速さで、秒の間に数十人を斬る。一千人など、一分とは保たない。兵士たちは己の死すら知らないかもしれない。
それにしても何たる惨状か。あの凄まじい豪剣で斬られたら、人間の肉體など一溜まりもない。騎馬までも一刀両断になっていた。
メタルハートは本能的に強い者の匂いに惹かれてあらわれるのだ。殺戮のみを生存の目的とした生物である彼女はグルメのようにより強い者を求める。そのため、稀に殺さずに生かすことがある。まるで肉の熟成を待つ者のように。
それが得られぬときの倦怠を紛らわすためにこのような大虐殺を行うのだ。遭った人々にとっては災害に等しい。土砂崩れや氾濫や炎や津波や震災が人を選んでくれぬように無情に全てを殺戮する。
「恐らくは私の匂いを感じて来たに相違ない。確かに私はあの頃よりは遙かに強い。熟成を待った甲斐もあったというものであろう。
しかし、この大虐殺は。理不尽過ぎる。いかに戦闘員とは言え、これが人間に対する処し方と言えるか。まるで、重機で幾百幾千もの子犬や子猫を踏み潰すようなものだ」
ジャン・〝アンニュイ〟・マータは待った。
ジン・メタルハートが戻って来ることを。
昇る太陽はその円なる輪郭を現し、宙に浮いて赫奕と輝く。
メタルハートは来ない。
アンニュイが諦めかけたとき、遠くから軍勢の存在の唸りのようなものを感じた。
「ハグレーポルガ王国軍か。
このまま国境を越えさせるわけにはいかない」
彼はそのまま軍の進行方向に立ち塞がった。
迫り来るハグレーポルガ軍もこの凄絶な惨状に驚いていた。
「いったい、一晩の間に、何が起こったというのか」
斥候が最後に見たのは、昨日の夕刻、国境に近づきつつあるホーク王国の精鋭兵たちの姿だったからである。
「将軍閣下、間違いなくホークの兵たちです。生存者は今のところ確認できなせん。皆殺し状態にも見えます」
将軍は大いに戸惑った。戦うべき相手がいなくなってしまったのである。
「いったい、どこの軍がやったのだ」
「まだ近くにいるやもしれません」
「警戒せよ」
「未知なる恐るべき敵」
「退却すべきか」
だが、将軍は憤りを昂じさせ、鼓舞する。
「いや、このまま一気にホーク王国の王都へ侵攻しよう。雪辱を晴らすのだ」
そして、
「兵士たちに伝えよ、雪辱を晴らせ!と」
伝令が喚きながら騎馬を疾駈させる。
雪辱を、その声は兵士たちの大合唱となった。
しかし。
「雪辱とは片腹痛い。そもそも、貴国の不義非道悪辣が原因ではないか。恩を仇で返した貴様らの韋屰行為が原因ではないか。
愚かにも程がある。弁えよ、愚劣者。どこが雪辱なものか。
正しくあるべき天誅天罰である。
それが未だわからぬというのなら、今この場で、この私が叩き込んで差し上げよう」
「何だ、あれは」
立ち塞がっていたアンニュイの姿に初めて気がつく。死骸が凄過ぎて眼が行かなかった。
遠眼にもはっきりわかる美しい金髪の嫋やかな、女性のように流麗な立ち姿。
数騎の将校が五十メートルほどの距離になるまで近づき、
「ホークの者か、どこの者だ、国を明らかにするものを身につけていないが」
「今は何処にも属さぬ亡国の民、下衆に名乗る名はない。成敗して進ぜよう」
「正気か、気は確かか、見るところたった一人のようだが」
「その一人がいかほどのものか見るがよい」
一瞬、アンニュイの姿は消えたかのように見えた。
そうではない。
凄まじい速さ、人間の動体視力で捉えることは不可能であった。
軍の渦中で、数騎の将校の首が斬られ、アンニュイが真っ只中で首級を掲げ、叫ぶ、
「兼ねてから庶民の兵士に罪はないと信じるものである。
王や貴族に逆らえるわけもない。
だから、今、武器を放棄して撤退するならば赦す。
せぬならば、悪に味方したものとして天誅を下す」
兵士たちは響めいたが、
「そんなこと言ったってよう、無理だべ、俺らそんなことしたら反逆罪で家族もろとも殺されちまう」
「そだ、そだ、無理難題言って庶民をいじめるなや」
「できっこないわ、できっこない。わしらにゃどうにもならねえ、どうしようもないんじゃ、わしらいつも、往くも地獄、退がるも地獄じゃ」
「どうしたらいいんじゃ、どうしたらいいんじゃ」
「バカやろ、敵はたった一人。やっちまうんだ」
「んだ、んだ、やっちまえ、やっちまえ、あんな細っこい女みたいな奴」
「アホ、見てなかったのか、あの神業、常人じゃねえ」
アンニュイはそれでも待った。
「考えてもみよ、君ら庶民はこの戦いは国のため、家族を守るためと言えるか。
貴族のため、裕福な市民のためではないか。身分の高い者の子弟や金持ちの子弟が辺境の前線で死んだことがあるか。彼らの子弟の死骸が辺鄙な地でまとめて焼かれ、まとめて穴に埋められたことがあるか。
皆、本国でぬくぬくとし、勝てば富を奪い合い、負ければ国庫を開けさせ、損害の穴埋めをする。
権力者は社会のダニだ。
君らはそのために命を賭すのか。
国家の戦争ではない。私利私欲の戦争だ。国のためなら命を賭けるであろうが、腐った上流階級のために命を賭けるものであろうか。
家族を悲しませてまで」
アンニュイは一度息を整え、
「ましてやハグレーポルガ王の王は恥知らずにも、隣国ヴォゼヘルゴ連邦に駐屯する神聖イ・シルヴィヱ駐屯軍に操られる。ヴォゼヘルゴの傀儡政府と同様に、傀儡の王と化している。
君らはあの悪逆な帝国のために利用されて死ぬのか」
兵士たちは激しく動揺したが、
「でも、どうにもなんねえ、どうにもなんねえんだよ」
それは魂の叫びであった。
アンニュイは歎息した。
「やむ得まい」
そして、ゆっくりと。
ラメの霧をまとうかのように、滲むよう移ろいながら霓色に燦めく神剣『霓の稲妻』を鞘から抜いた。
その瞬間、半径十メートルの巨木のように太い霓色の稲妻が落ちて大地を裂く。大きな揺れとともに、谷のような亀裂ができた。
「ひえええ、ひえええ」
「あああ、殺される、殺される!」
兵士たちは理性を喪い、皆逃げ出した。
「神だあ、神様だあああ」
将校や将軍たちは焦り怒鳴った。
「馬鹿者、列を乱すな、逃げるな、軍規によって処罰するぞ、親族も皆殺しに、うわあ!」
怒濤に呑み込まれる。
アンニュイは言った。
「大丈夫だ。お前たちは皆死ぬから。それゆえ、報告する者もいない」
再び姿が消えたかのように見える。
将軍以下、全将校の首級を大地に転がした。
「一瞬の生のために、永遠の地獄を生きよ、無知蒙昧なる愚者どもよ」




