第十三章 エクスターゼ
「期待外れだ、我が嗅覚も鈍ったか。ジャン・マータほどでもない。
まだ幾許かは強くなる。素地が既に見える。今少し、熟成させるか。ふ」
そう言われたような気がした。あの炎の轟音のさなかで。
蔑みと残虐と解剖する科学者のような冷酷な興味とが綯交ぜとなったような、烈火鬼神の眼刺しだった。
あれは現実だったのだろうか。
空耳か。
いったい、どういう意味だ。
いずれにせよ、あのバケモノは殺さなかった。
今は見逃すという意味か。ジャン・マータの名が出た。数年前から聞く。超絶の戦士だと。
屈辱を感じる。
敗北。圧倒的な力の差。普通の人間なら取り憑き殺されてしまうような怨霊を何百何千とまるでプロテクターのように身にまとっていた。
それもあの凄まじい氣魄、闘氣、鬼神のごとき大靈威のせいか。
死してもなお、苦しめ続けている。
思うだけで、怖しい。神をも畏れぬとはあのことか。到底、人間ではない。
怖るべきことだ。
あんなことが。
あんなことが赦されるのか、ただ、強ければ。強ければ、それでいいのか。だが、実際、この世には現実しかない。
正義はない。真実はない。凄絶な無味乾燥。ただ、現実だけがある。それは虚無よりも虚無だ。空よりも空だ。空を絶する絶空よりも空だ。何もないすらもない。
この世にあるのは、狂気と気紛れな殺戮で何の歯止めもルールもない無際限な解放、なすがままの事実、生きる意味も価値もない世界。ただ、強い者が暴威を振い、好き勝手に貪り喰らう世界。
弱き者には、ただ、苦しみと死と、それしかない。
倫理も論理もロゴスも正義も一切の価値もない、諸概念も無意味、かつ、無効だ。
不気味な、非生物の世界、無感情で、冷徹非情な、空莫で、無機質な世界。物質的な、絶空よりも絶空なる世界。
絶望。
深淵、超巨大新星のブラックホールよりも重く深い。空間も歪ませるほどの重力、宇宙全てを潰すほどの重力。時間も空間も光もその重力に吸い込まれて、二度と出ては来られない。
「ああ、堪えられない、堪えられないっ! 生きることに、生きることに堪えられない! ああ、ああ」
歪んで引き延ばされ、牽き裂かれそうだった。
そのとき、ジョルジュは自分が異様な場所にいることに気がついた。
「何だ、ここは」
そこは恐るべき荒野だった。釈迦が見たとされる恐るべき荒野。
一切の装飾化粧が剥がされ、真の現実そのものが剥き出しに真如の姿を露呈したその空絶の壮絶凄絶さ。上下左右前後がわからない、ない。無際限な自由。途方もない自由。狂乱、狂裂。
「うぎゃあああ、あああああああああーっ!」
ジョルジュが牽き裂かれ、千切れ、吹き飛び散らされ乱れ、繚乱する、やがて、渦となる、銀河のように、そして、炸裂。
全一切世界を凌駕し、超越してあふれる莊儼な光の潮。
まるで、陰極まって陽となり、陽極まって陰となるように、突き破って逆になったかのように、千億の大宇宙でさえ、素粒子にもならぬほど広大な、無限に眩い光の潮の大静寂の中にいた。
「これは・・・」
そう思った瞬間、臍下丹田から青白い炎が兆し始める。それは最初、微かな黎明であった。
ちらちらと瞬くような、小さな火。
やがて、立ち昇る朝日のように、炎となり、光芒を放ち、燦然と輝く。
「あ、熱い、體が」
燃えるような熱さであった。體が舞い上がるような感覚。高雲を越えて、天穹を飛翔する。凄絶な光りが興った。
全ての世界がホワイトアウトする。
「ジョルジュ・サンディーニよ、偉大なる裂士よ、お前は生存への執著を持っては生きることに堪えられない眞實を観た。
眞の未遂不收を観た。
お前の魂はレジストした」
「あなたは」
ジョルジュは見上げた。
天穹よりも遙かに巨大な姿。
「我こそは眞究竟眞實義、全一切世界の主宰神、神彝ヰ啊ゑえ烏乎甕である。
お前に我が恩寵を与えよう。
お前は二十歳以降は歳を取らぬ。永遠の若さのまま、不死となった。
今日からお前は、殉真裂士だ」
「聖なる神剣を与える。
『銀月の剣』だ。一振りで数十の重装甲兵を斬り、熟達すれば数千を斬るであろう」
それは白銀色の梨地のように綺羅綺羅していた。舞い降りたそれをジョルジュは拝受する。聖句や聖なる紋が象嵌されている。鞘には神聖なる様々な浮き彫りが施されていた。
「そして、聖なる神弓、『太陽の弓』を与える。
これで射れば、一本の矢で、数十のチャリオットを、熟達すれば数千のチャリオットを滅尽させることができるであろう。
しかも、矢筒からは無尽蔵に矢が湧き出でて、矢が尽きることはない」
弓は太陽神アポロンのように燦然と若々しく赫いていた。凄まじい熱と光だが、ジョルジュは掴むことができた。
「闘うがよい、殉真裂士よ、眞實のために」
ジルジュは神剣と神弓とは神の道具にふさわしく、やたらな人間が触れては消失してしまうそうな凄まじい光輝にあふれていた。そのあまりの神聖さ、崇高さに打たれ、ジョルジュは恍惚とし、感涙した。
「あゝ、神よ、感謝いたします」
そう言った後、ジョルジュの意識は喪われた。
伏し斃れた。
眼が覚めると、黎明であった。岩の上に伏していた。周囲は骸の転がるばかりで、燻った煙が棚引くように、風に細長く引き伸ばされている。
萌え出る曙光が昇るに連れ、影を少しずつ短くする。
死と生命と。
魂を失った者ように、余りの喪失に心を奪われた憮然の状態であるかのように、半ば朦朧、悄然として、山岳を下った。剣と弓とは何事もなかったかのように、鎮まり、その輝きを抑制している。
見た眼には、全く普通の剣と弓とであった。




