第7章 気づきの始まり
六月も終わりに近づき、社内恋愛応援部は予想以上に忙しくなっていた。
設立当初は半信半疑だった社員たちも、これまでの実績を聞きつけ、少しずつ相談に訪れるようになっていたのだ。
「先輩、今月だけで相談件数十五件ですよ!」
彩乃が嬉しそうに資料を掲げる。
「意外と多いな」
「意外ってなんですか」
「もっと暇な部署になると思ってた」
「失礼ですねぇ」
彩乃が頬を膨らませる。
そんなやり取りも、今では日常になっていた。
最初の頃と比べれば、二人はかなり息が合うようになっている。
相談内容を聞けば、お互いが何を考えているかも少しずつ分かるようになった。
だが——。
それと同時に、悠真の中では説明できない変化も起き始めていた。
その日の昼休み。
悠真が資料を整理していると、部屋の外から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
何気なく顔を上げる。
すると廊下の向こうで、彩乃が営業部の男性社員と話していた。
二人とも笑顔だ。
どうやら何か雑談をしているらしい。
それ自体は珍しくもない。
彩乃は誰とでも話せる性格だ。
会社のあちこちに知り合いがいる。
だから気にすることじゃない。
……そのはずだった。
「……」
なぜか視線が離せない。
男性社員が何かを言う。
彩乃が笑う。
また男性社員が笑う。
それを見ているうちに、胸の奥が妙にざわついた。
「なんだこれ……」
思わず小さくつぶやく。
理由は分からない。
ただ、面白くない。
そんな感覚だけが残った。
その時。
「先輩?」
突然声をかけられた。
振り向くと、いつの間にか彩乃が部屋に戻ってきていた。
「何見てたんですか?」
「別に」
即答だった。
彩乃は怪しそうな顔をする。
「本当ですか?」
「本当だ」
「なんか変ですよ?」
「気のせいだ」
そう言うと、彩乃は納得していない顔をしながらも席へ戻っていった。
だが悠真自身も、自分がおかしいことは分かっていた。
なぜあんなに気になったのか。
その理由が分からない。
その日の帰り道。
二人はいつものように駅へ向かって歩いていた。
夕方の街は仕事帰りの人で賑わっている。
「そういえば」
彩乃が口を開く。
「今日、営業部の高橋さんと話してたんです」
悠真の足が一瞬だけ止まりそうになる。
「……そうか」
「すごく面白い人なんですよ」
「へえ」
「しかも仕事もできるらしくて」
「へえ」
「聞いてます?」
「聞いてる」
聞いている。
聞いているからこそ、妙に落ち着かない。
彩乃は不思議そうに首を傾げた。
「先輩、なんか機嫌悪いです?」
「別に」
「今日二回目ですよ、その返事」
彩乃はくすくす笑う。
だが悠真には笑えなかった。
高橋。
さっき彩乃と話していた男だ。
別に何も問題はない。
同じ会社なんだから話すのは当然だ。
なのに。
「……仲いいのか?」
気づけば口にしていた。
彩乃が目を丸くする。
「高橋さんですか?」
「ああ」
「普通ですよ?」
「そうか」
それだけ聞いて、なぜか少し安心した。
彩乃はますます不思議そうな顔になる。
「先輩、珍しいですね」
「何が」
「そういうこと聞くなんて」
悠真は答えられなかった。
自分でも理由が分からないからだ。
翌日。
社内恋愛応援部に新しい相談者がやって来た。
二十代後半の女性社員だった。
相談内容は、職場の男性への片想い。
いつも通り話を聞きながら、彩乃が優しく質問していく。
「好きな人が他の女性と話してると気になりますか?」
彩乃が聞いた。
女性は即答した。
「めちゃくちゃ気になります」
「やっぱりそうですよね」
彩乃が笑う。
「好きな人が他の人と仲良くしてると、なんかモヤモヤします」
女性は少し照れながら言った。
「嫉妬しちゃうんです」
その瞬間だった。
悠真の思考が止まる。
——嫉妬。
その言葉が頭の中で反響する。
昨日のことを思い出す。
彩乃と高橋が話していた時。
胸の奥がざわついたこと。
面白くなかったこと。
仲がいいのか聞いてしまったこと。
全部が繋がる。
「……まさか」
小さくつぶやく。
彩乃が振り返る。
「先輩?」
「いや……なんでもない」
だが心臓は少し速くなっていた。
そんなはずない。
そう思う。
だが、同時に否定しきれない自分もいる。
その日の夜。
悠真は自宅のソファに座りながら、何度も同じことを考えていた。
彩乃。
山本彩乃。
社内恋愛応援部の後輩。
明るくて。
うるさくて。
人のために本気になれて。
時々無茶をして。
放っておけなくて。
気づけば一番長く一緒にいる相手になっていた。
「……」
天井を見上げる。
そして、ゆっくり目を閉じた。
今日一日だけでも、何度彩乃のことを考えただろう。
仕事中も。
帰り道も。
今も。
そこまで考えた時だった。
胸の奥で、ようやく一つの答えが形になる。
「俺……」
声が漏れる。
静かな部屋の中で、その言葉だけが響いた。
「彩乃のこと……」
最後まで言わなくても分かっていた。
もう気づいてしまったからだ。
今まで認めないようにしていただけで。
本当はずっと前から。
少しずつ。
少しずつ。
特別になっていたのだ。
そしてその頃。
同じように部屋のベッドに寝転びながら、彩乃もまた考えていた。
今日の帰り道。
珍しく高橋のことを聞いてきた悠真。
どこか様子がおかしかった悠真。
そして、そんなことが少し嬉しかった自分。
「……なんでだろ」
彩乃は小さくつぶやく。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かい。
その理由を、彼女はまだ知らなかった。
だが二人の気持ちは確実に動き始めていた。
誰かの恋を応援する二人が。
いつの間にか、自分たちの恋の入り口に立っていることにも気づかないまま。




