第8章 揺れる心
七月に入り、社内恋愛応援部は以前にも増して忙しくなっていた。
相談件数が増えたことで、悠真と彩乃は毎日のように打ち合わせを行い、社員たちの恋愛相談に向き合っていた。
周囲からの評判も悪くない。
「恋愛相談ならあそこに行けばいい」
そんな声も聞こえるようになっていた。
本来なら喜ぶべきことだった。
だが悠真の心は、どこか落ち着かなかった。
理由は分かっている。
分かっているからこそ厄介だった。
「失礼します」
その日やって来た相談者は、営業部の男性社員だった。
悠真は顔を見た瞬間、見覚えがあることに気づく。
「高橋さん?」
彩乃も驚いたように声を上げた。
そう。
第7章で彩乃と話していた、あの高橋だった。
「お久しぶりです」
高橋は笑顔で椅子に座る。
人当たりがよく、爽やかな雰囲気の男性だ。
女性社員から人気があるという話も聞いたことがある。
「今日はどうされましたか?」
彩乃が尋ねる。
すると高橋は少しだけ照れたように笑った。
「実は、好きな人がいて」
その言葉に、悠真は特に何も感じなかった。
最初の数秒は。
「その人に気持ちを伝えたいんです」
「なるほど」
彩乃がうなずく。
「ちなみにどんな方なんですか?」
何気ない質問だった。
高橋も何気なく答えた。
「明るくて、誰にでも優しくて、一緒にいると元気をもらえる人です」
彩乃は微笑む。
「素敵ですね」
「はい。本当に素敵な人なんです」
高橋は少し恥ずかしそうに笑った。
そして続ける。
「実はその人、この会社の人なんです」
「そうなんですね」
「はい」
ここまでは普通だった。
だが次の瞬間。
高橋の視線が、彩乃へ向いた。
ほんの一瞬だった。
しかし悠真は見逃さなかった。
そして。
気づいてしまった。
「……」
胸の奥が嫌な音を立てる。
まさか。
いや。
でも。
「その人のこと、好きになってどれくらいですか?」
彩乃はまだ気づいていない。
普通に質問を続けている。
高橋は少し考えた後、答えた。
「半年くらいですね」
半年。
ちょうど社内恋愛応援部ができる前後だ。
悠真の嫌な予感は強くなっていく。
相談が終わった後。
高橋は笑顔で帰っていった。
部屋には悠真と彩乃だけが残る。
「いい人でしたね」
彩乃が資料をまとめながら言う。
「……そうか」
「?」
彩乃が首を傾げる。
「先輩?」
「なんでもない」
またその返事だった。
彩乃は少し不満そうな顔をする。
「最近そればっかりですね」
「……」
「どうしたんですか?」
聞かれても答えられない。
なぜなら。
高橋の好きな相手が誰なのか。
ほぼ確信してしまったからだ。
その日の昼休み。
悠真が一人で資料を見ていると、廊下から聞き慣れた笑い声が聞こえた。
顔を上げる。
そこには彩乃と高橋がいた。
また話している。
しかも今日は昨日より楽しそうだった。
高橋が何かを話し、彩乃が笑う。
彩乃が話し、高橋が笑う。
ただそれだけ。
本当にただそれだけなのに。
悠真の胸は妙にざわついた。
「……」
資料の文字が頭に入ってこない。
自分でも驚くほど落ち着かない。
そしてふと思う。
もし高橋が告白したら。
もし彩乃がそれを受け入れたら。
その時、自分はどうするのだろう。
考えたくないのに。
考えてしまう。
その日の帰り。
珍しく彩乃が先に声をかけてきた。
「先輩!」
「ん?」
「今日、一緒に帰りません?」
悠真は少し驚いた。
いつもなら自然と一緒になることはあっても、彩乃から誘うことは少ない。
「別にいいけど」
「やった」
彩乃は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ただけで、少しだけ気持ちが軽くなる。
我ながら単純だと思う。
二人は並んで駅へ向かった。
夕方の風が少しだけ涼しい。
「そういえば」
彩乃が言う。
「高橋さん、頑張ってほしいですね」
悠真の足が止まりそうになる。
「……何がだ」
「恋ですよ」
彩乃は当然のように言う。
「好きな人がいるんですよね」
「そうだな」
「応援したくなります」
その言葉に、悠真は苦笑しそうになる。
——そりゃそうだ。
彩乃はそういう人だ。
誰かの恋を応援したい。
誰かの幸せを願いたい。
だからこそ、この部署にいる。
「先輩?」
彩乃が不思議そうに覗き込む。
「なんか変ですよ?」
「……別に」
また言ってしまった。
彩乃は少し笑う。
「今日は三回目です」
「数えてたのか」
「数えますよ」
そう言って笑う彩乃。
その笑顔を見ながら、悠真は思う。
本当は言いたい。
高橋の恋を応援したくない。
そう思っている自分がいる。
でも言えない。
そんな資格はない。
まだ何も伝えていないのだから。
その夜。
悠真は眠れなかった。
ベッドに横になっても、頭に浮かぶのは彩乃のことばかりだった。
笑顔。
声。
仕草。
今日の帰り道。
全部が頭から離れない。
そしてようやく認める。
もうごまかせない。
これはただの好意じゃない。
仕事仲間への信頼でもない。
もっとはっきりした感情だ。
「……好きなんだな」
静かな部屋でつぶやく。
言葉にした瞬間、胸が少し苦しくなる。
なぜなら同時に気づいてしまったからだ。
好きだからこそ怖い。
失うのが怖い。
関係が変わるのが怖い。
それは以前、自分が相談者たちに話していた感情そのものだった。
そしてふと、第4章の彩乃とのケンカを思い出す。
「好きなら伝えたいって思うの、普通じゃないですか!」
あの時の言葉。
今なら少し分かる気がした。
誰かを本気で好きになった時。
気持ちを伝えたいと思うこと。
そして怖いと思うこと。
その両方を。
悠真は静かに目を閉じる。
恋愛応援部の部長代理。
恋を応援する側の人間。
そんな自分が今。
誰よりも恋に振り回され始めていた。
(第9章では、彩乃側も自分の気持ちに気づき始めて、二人の関係が大きく動き出す展開になるよ。)




