第6章 うまくいかない恋
「……失恋、ですか」
彩乃が小さくつぶやく。
その日の相談者は、これまでとは少し違っていた。
部屋の椅子に座る女性社員は、終始うつむいたまま顔を上げようとしない。指先をぎゅっと握りしめ、その肩はわずかに震えていた。
悠真は静かに資料を閉じる。
これまで社内恋愛応援部に来る人たちは、“これから頑張りたい人”ばかりだった。だが今回の相談は違う。
すでに、終わってしまった恋の話だった。
「昨日、告白したんです」
女性はかすれた声で言った。
「でも……振られました」
部屋の空気が静かに沈む。
彩乃はゆっくりとうなずきながら、女性の話を聞いていた。
「それで、会社で顔合わせるのが辛くて……」
「同じ部署なんですか?」
「はい……」
女性は小さく笑う。
だがその笑顔は、無理やり作ったものだった。
「好きにならなきゃよかったって、ちょっと思ってます」
その言葉に、彩乃の表情が曇る。
悠真はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「……まだ好きなんですか?」
女性は少し驚いたように顔を上げた。
数秒迷った後、小さくうなずく。
「……はい」
「なら、すぐには整理できないだろ」
悠真の声は落ち着いていた。
「無理に忘れようとすると、余計引きずることもある」
「……」
「今は“失恋した自分”を受け入れるしかないと思います」
彩乃がちらりと悠真を見る。
意外だったのかもしれない。
普段の悠真なら、もっと現実的で冷たい言い方をすると思っていたのだろう。
女性社員は静かに目を伏せる。
「でも、会社で会うたびに思い出しちゃって……」
「じゃあ、少しだけ距離を取ればいい」
悠真は言った。
「逃げるって意味じゃなくて、自分を落ち着かせる時間を作るんです」
女性はその言葉をゆっくり噛みしめるように聞いていた。
彩乃も続ける。
「失恋って、“終わり”みたいに感じますよね」
「……はい」
「でも、好きだった気持ちまで無駄になるわけじゃないと思うんです」
女性が目を瞬かせる。
「ちゃんと誰かを好きになれたことって、すごく大切なことだから」
優しい声だった。
女性の目に、少しだけ涙が浮かぶ。
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
だが、来た時よりは少しだけ表情が柔らかくなっていた。
相談が終わった後。
部屋には静かな空気が流れていた。
彩乃はしばらく何も言わず、机の上をぼんやり見つめている。
悠真はそんな彼女を見て、小さく息を吐いた。
「……珍しいな」
「え?」
「お前、今日は静かだろ」
彩乃は苦笑する。
「ちょっと考えてました」
「何を」
「恋って、うまくいくだけじゃないんだなって」
その言葉に、悠真は少しだけ目を細める。
「当たり前だろ」
「そうなんですけど……」
彩乃は窓の外を見る。
「今までは、“頑張れば叶う”ってどこかで思ってたんです」
「……」
「でも、ちゃんと想っててもダメな時ってあるんですね」
その横顔は、少しだけ寂しそうだった。
悠真は椅子にもたれ、静かに言う。
「恋愛なんて、タイミングとか相性とか、そういうので簡単に変わる」
「夢ないですね」
「現実だ」
即答だった。
だが今日は、彩乃も強く言い返さなかった。
その代わり、小さくつぶやく。
「……でも、ちょっと悔しいです」
「何が」
「好きなのにダメって、悲しいじゃないですか」
悠真は返事をしなかった。
その感覚は、なんとなく分かる気がしたからだ。
夕方。
その日は珍しく、相談もなく静かな時間が流れていた。
彩乃は資料整理をしていたが、どこか元気がない。
悠真はそれを見ながら、ふと思い出す。
——前にもこんな顔してたな。
失敗した恋愛相談を受けた時。
誰かの悲しみに、必要以上に感情移入してしまう。
それが彩乃という人間だった。
「……おい」
悠真が立ち上がる。
「はい?」
「ちょっと来い」
「え?」
彩乃が不思議そうな顔をする。
悠真はそのまま部屋を出ていった。
「ちょ、先輩!?」
慌てて後を追う彩乃。
向かった先は、会社近くの小さな公園だった。
夕暮れの風が静かに吹いている。
「……なんですか?」
彩乃が首を傾げる。
悠真は近くの自販機に小銭を入れた。
ガコン、と音を立てて缶が落ちてくる。
「ほら」
差し出されたのは温かいミルクティーだった。
彩乃が目を丸くする。
「え、私にですか?」
「他に誰がいる」
「……先輩、甘いの嫌いじゃなかったでしたっけ」
「俺が飲むわけじゃない」
ぶっきらぼうに答える。
彩乃は缶を受け取り、小さく笑った。
「ありがとうございます」
しばらく沈黙が流れる。
公園には子供たちの笑い声が遠くに聞こえていた。
やがて悠真がぽつりと言う。
「……お前、すぐ背負い込むよな」
彩乃が顔を上げる。
「相談者の恋まで、自分のことみたいに考えてる」
「だって、辛そうだったから」
「それでお前まで落ち込んでたら意味ないだろ」
彩乃は少し黙った。
「……でも、放っておけないんです」
「優しすぎるんだよ」
悠真はそう言って、自分の缶コーヒーを開ける。
彩乃はミルクティーを見つめながら、小さくつぶやいた。
「先輩って、時々すごく優しいですよね」
「は?」
「普段は冷たいのに」
「お前な……」
思わず眉をひそめる。
だが彩乃は楽しそうに笑っていた。
その笑顔を見ていると、悠真は妙に安心する。
——また笑ってる。
そのことに、なぜかほっとしている自分がいた。
「……元気出たか?」
悠真が聞く。
彩乃は少し驚いたように目を瞬かせる。
それから、ふわっと笑った。
「はい。ちょっとだけ」
夕焼けが、二人をオレンジ色に染める。
静かな風が吹く中で、悠真はふと思う。
この時間が、案外嫌いじゃない。
むしろ——心地いい。
そんな感覚が、少しずつ胸の奥に広がり始めていた。




