第5章 少しだけ近づく距離
翌朝。
社内恋愛応援部の部屋には、妙な静けさが流れていた。
いつもなら始業前から彩乃が何かしら話しかけてくる。昨日見たドラマの話だったり、新しくできたカフェの話だったり、とにかく賑やかだ。
だが今日は違った。
「……おはようございます」
彩乃は小さく頭を下げるだけで、自分の席に座ってしまう。
「お、おう」
悠真もぎこちなく返事をした。
会話が続かない。
キーボードを打つ音だけが部屋に響く。
——気まずい。
悠真は小さくため息をついた。
昨日の言い合いが尾を引いているのは明らかだった。
別に嫌われたわけではない。多分。
だが、距離ができている。
それが妙に落ち着かなかった。
「……」
ちらりと彩乃を見る。
真面目な顔でパソコンを見つめているが、どこか元気がない。
その横顔を見ていると、昨日最後に向けられた視線を思い出す。
——“先輩には分からないんですね”
あの言葉が、予想以上に残っていた。
その時、突然内線が鳴る。
二人とも同時に顔を上げた。
「あっ……」
彩乃が受話器を取ろうとして、悠真の手とぶつかる。
「あ、すみません!」
「……いや」
一瞬だけ指先が触れた。
その距離の近さに、なぜかお互い少し固まる。
「……出れば?」
悠真が先に手を引いた。
「は、はい」
彩乃は少し慌てた様子で受話器を取る。
「はい、社内恋愛応援部です」
声はちゃんと仕事用だった。
だが、どこか硬い。
「はい……はい、分かりました。ではお待ちしています」
電話を切る。
「相談ですか?」
悠真が聞く。
「……はい」
それだけ言うと、彩乃は再びパソコンへ目を向けた。
完全に壁を作られている。
悠真は思わず眉をひそめた。
数分後、部屋に入ってきたのは若い男性社員だった。
どこか疲れたような顔をしている。
「どうぞ、座ってください」
彩乃が丁寧に案内する。
男性は椅子に座ると、小さく頭を下げた。
「実は……付き合ってる彼女と最近うまくいってなくて」
「社内恋愛ですか?」
「はい。同じ部署なんですけど、最近ほとんど話せなくて……」
聞けば、仕事の忙しさですれ違いが増え、小さなケンカを繰り返しているらしい。
「昨日も、ちょっとしたことで言い合いになってしまって」
その言葉に、悠真と彩乃は一瞬だけ顔を見合わせた。
——昨日の自分たちみたいだ。
そう思ったのは、おそらく両方同じだった。
「……仲直りしたいんですよね?」
彩乃が静かに聞く。
「はい。でも、なんて話しかければいいか分からなくて」
男性は困ったように笑った。
その表情を見ながら、悠真はふと口を開く。
「意地張ってると、余計こじれるぞ」
「え?」
「ケンカって、大体“自分は悪くない”って思ってるうちに長引くからな」
自分でも驚くほど自然に言葉が出ていた。
彩乃が少し目を丸くする。
「……先輩、経験あるんですか?」
「ない」
即答だった。
「じゃあなんでそんな偉そうなんですか」
「なんとなくだ」
少しだけ、空気が柔らかくなる。
男性社員も苦笑した。
「でも、確かにそうかもしれません」
「まずは普通に話せばいいと思いますよ」
彩乃も優しく続ける。
「謝るとか、正しいことを言うとかじゃなくて、“ちゃんと向き合いたい”って伝えるだけでも違うと思います」
その言葉には、どこか実感がこもっていた。
男性はゆっくりとうなずく。
「……ありがとうございます。やってみます」
相談者が帰った後。
部屋には静かな空気が戻る。
だが、朝とは少し違った。
完全な沈黙ではない。
悠真は椅子にもたれながら、ぽつりと言った。
「……悪かった」
彩乃が目を瞬かせる。
「昨日のこと」
「……」
「言い方、きつかったかもしれない」
素直に謝るのは得意じゃない。
だが、今はそれを言わなければいけない気がした。
彩乃はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「先輩、不器用ですよね」
「うるさい」
「でも……私も熱くなりすぎました」
彼女も静かに頭を下げる。
その瞬間、部屋の空気がふっと軽くなった。
「……仲直り、ですかね?」
彩乃が少しだけいたずらっぽく笑う。
悠真は肩をすくめた。
「多分な」
すると彩乃は、急に何かを思い出したように立ち上がる。
「あ」
「なんだよ」
「先輩、今日お昼まだですよね?」
「まあ」
「じゃあ、昨日のお詫びに奢ります!」
「は?」
「いいから行きましょう!」
彩乃は強引に悠真の腕を引っ張る。
「お、おい!」
突然の行動に、悠真は少しよろけた。
その様子を見て、彩乃が吹き出す。
「ふふっ、先輩面白いです」
「どこがだよ……」
だが、不思議と嫌ではなかった。
昼休み。
二人は会社近くの小さな定食屋に来ていた。
「先輩って、こういう店好きそうですよね」
「落ち着くからな」
「もっとオシャレなお店とか行かないんですか?」
「行かない」
「女子にモテませんよ?」
「余計なお世話だ」
そんな会話をしながら、悠真はふと気づく。
——普通に笑ってる。
昨日までの気まずさが、嘘みたいに消えていた。
彩乃も楽しそうだった。
店員が料理を運んでくる。
「おお、美味そう」
悠真がぽつりと言うと、彩乃が目を丸くする。
「先輩って、そういう顔するんですね」
「どういう顔だよ」
「なんか今、ちょっと子供っぽかったです」
「……ほっとけ」
彩乃はくすくす笑う。
その笑顔を見ていると、悠真の胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
昨日までなら気にしなかったはずなのに。
「……?」
彩乃が不思議そうに首を傾げる。
どうやら無意識に見つめていたらしい。
悠真は慌てて視線を逸らした。
「いや、なんでもない」
「変な先輩」
彩乃は笑ったまま箸を動かす。
その姿を見ながら、悠真は小さく息を吐く。
——なんなんだ、この感じ。
まだ答えは分からない。
だが一つだけ確かなことがあった。
昨日ぶつかったことで、終わるどころか。
むしろ二人の距離は、少しだけ近づいていた。




