第4章 ぶつかる想い
社内恋愛応援部が設立されてから、二週間ほどが過ぎていた。
最初は半信半疑だった周囲の社員たちも、一件目の成功をきっかけに、少しずつこの部署を認識し始めているらしい。最近では「恋愛相談ならあそこ」という噂まで流れ始めていた。
その日も朝から、部屋には穏やかな空気が流れていた。
「先輩、コーヒー飲みます?」
彩乃が給湯スペースから顔を出す。
「……ブラック」
「またですか?苦くないんですか?」
「甘いの苦手なんだよ」
「人生損してますよ、それ」
「大きなお世話だ」
そんな軽いやり取りも、いつの間にか自然になっていた。
最初に感じていた違和感は、もうほとんどない。
——だが、その空気が崩れるのに時間はかからなかった。
コンコン、と扉がノックされる。
「どうぞ!」
彩乃が返事をすると、一人の女性社員が入ってきた。
年齢は二十代後半くらいだろうか。落ち着いた雰囲気だが、その表情には明らかな迷いが浮かんでいた。
「失礼します……」
「こちらへどうぞ」
悠真が椅子を引く。
女性は小さく頭を下げ、静かに腰を下ろした。
「今日はどういったご相談でしょうか?」
彩乃が柔らかい声で尋ねる。
女性は少し視線を落とした後、ゆっくりと口を開いた。
「……幼なじみがいるんです」
「幼なじみ?」
「同じ会社で働いていて……もう十年以上の付き合いです」
そこまで聞いた時点で、悠真はなんとなく状況を察した。
「好きなんですね。その人のこと」
彩乃が優しく言う。
女性は恥ずかしそうにうなずいた。
「でも、関係を壊したくなくて……」
その言葉には、強い不安が滲んでいた。
「もし気持ちを伝えて、今までみたいに話せなくなったらって考えると……怖くて」
部屋に静かな空気が流れる。
悠真は腕を組みながら考える。
長い関係だからこそ、失う怖さも大きい。
単純に「告白しましょう」と背中を押せる話ではなかった。
しかし、その沈黙を破ったのは彩乃だった。
「でも、伝えないまま後悔する可能性もありますよね」
女性が顔を上げる。
「今の関係を大切にしたい気持ち、すごく分かります。でも、本当に大切なら、一歩踏み出さないと変われないこともあると思うんです」
真っ直ぐな言葉だった。
女性は少しだけ安心したように表情を緩める。
だが、その横で悠真は眉をひそめていた。
「……いや、簡単に言うなよ」
「え?」
彩乃が振り返る。
「十年以上の関係なんだろ?失敗した時のリスクは普通より大きい」
「でも——」
「今の距離感を壊さない選択だってある」
部屋の空気が少し張り詰める。
女性社員は困ったように視線を泳がせた。
彩乃は数秒黙った後、静かに言った。
「先輩は、“傷つかない選択”を勧めてるだけじゃないですか?」
その言葉に、悠真の眉がぴくりと動く。
「……どういう意味だ」
「だって、怖いからやめておこうって言ってるように聞こえます」
「現実的な話をしてるだけだ」
「でも、それで本当に後悔しないんですか?」
彩乃の声には、いつになく強い感情が混ざっていた。
悠真は小さく息を吐く。
「恋愛って、綺麗事だけじゃないだろ」
「分かってます!」
珍しく、彩乃が声を荒げた。
部屋が一気に静まり返る。
「分かってますけど……それでも、気持ちを伝えないまま終わる方が辛いことだってあります」
その表情は真剣だった。
まっすぐで、不器用なくらい真剣だった。
悠真はしばらく黙っていたが、やがて視線を女性社員へ向ける。
「……最終的に決めるのはあなたです」
低く落ち着いた声。
「伝えるか、今の関係を守るか。どっちにも覚悟は必要だと思います」
女性社員は静かにうなずいた。
「少し……考えてみます」
相談はそこで終わった。
女性が帰った後、部屋には重たい沈黙だけが残る。
彩乃は机の資料を整理するふりをしながら、明らかに不機嫌そうだった。
悠真はその様子を見ながら、小さくため息をつく。
「……なんだよ」
「別に」
「顔に出てる」
彩乃は手を止めた。
そしてゆっくり振り返る。
「先輩って、時々すごく冷たいです」
その言葉は、思った以上に刺さった。
「冷たい?」
「傷つかないようにすることばっかり考えてる気がします」
「現実見てるだけだ」
「でも、恋愛ってそれだけじゃないじゃないですか!」
彩乃は強く言い返す。
「好きなら伝えたいって思うの、普通じゃないですか!」
「伝えて全部壊れることもある」
「それでも、自分の気持ちに嘘つく方が嫌です!」
二人の声が、静かな部屋にぶつかる。
悠真は眉を寄せた。
「……理想論だな」
その一言で、空気が凍る。
彩乃はしばらく何も言わなかった。
だが数秒後、小さく口を開く。
「……先輩には分からないんですね」
「何が」
「気持ちを伝えたいって思う側の気持ち」
その声は、少しだけ震えていた。
悠真は何か言い返そうとして——やめた。
彩乃は視線を逸らす。
「今日はもう帰ります」
「おい」
「お疲れ様でした」
それだけ言うと、彼女は部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
静かになった部屋の中で、悠真は一人椅子にもたれた。
窓の外では、夕暮れが街を赤く染め始めている。
「……なんなんだよ」
小さくつぶやく。
自分は間違ったことを言ったつもりはない。
恋愛は、勢いだけでどうにかなるものじゃない。失う怖さだってある。だからこそ慎重になるべきだ。
——なのに。
なぜか胸の奥が妙に重かった。
彩乃の最後の表情が、頭から離れない。
「……気持ちを伝えたい側、か」
ふと、その言葉を繰り返す。
今まで、そんなふうに考えたことはなかった。
誰かを好きになって、関係が壊れるのを怖がりながら、それでも伝えたいと思う感情。
彩乃は、きっとそれを大切にしている。
だからこそ、あんなに真剣になれるのだろう。
悠真は深く息を吐き、机の上を見る。
そこには、彩乃が飲みかけのまま置いていったコーヒーカップが残っていた。
いつも賑やかな部屋が、今日はやけに静かだった。
そして悠真はまだ知らない。
この“初めての衝突”が、二人の関係を少しずつ変えていくことを。




