第88話 玉座の距離
帝都アドラーブルク。
白亜の回廊に、足音が静かに響く。
その中心。
重厚な扉の奥——
皇太子執務室。
「……以上が、ヴァレン王国側からの非公式報告です」
机の前で報告を終えた官僚が、頭を下げる。
沈黙。
窓際に立つ一人の男が、ゆっくりと外を見ていた。
帝都を覆う、整然とした街並み。
だがその奥にある“歪み”を、彼は知っている。
「——観測局が動いたか」
低い声。
振り返る。
金色の瞳が、静かに光を帯びていた。
帝国皇太子。
この国の次代を担う男。
「はい。“対象”を確認したとのことです」
「対象、ね……」
わずかに苦笑する。
「人を物のように扱うな、と何度言えばいい」
官僚は答えない。
答えられない。
それが、この国の“普通”だからだ。
皇太子は、机へと歩み寄る。
一枚の報告書を手に取る。
そこに記されている名。
——セラ・エーレンベルク。
「……皮肉なものだな」
小さく呟く。
その名を持つ少女に、自ら会いに行ったのは——他でもない、自分自身だった。
数ヶ月前。
まだすべてが、ここまで歪む前。
帝国の外に、“普通ではない何か”の気配がある。
そう感じた時から、彼は独自に動いていた。
公式な外交でもなく、命令でもなく。
自分の目で確かめたくて——接触した。
「あなたは——何を望んでいる?」
そう問いかけた少女の顔が、脳裏に浮かぶ。
真っ直ぐな目だった。
偽名を名乗りながらも、その奥にあったのは——
“嘘のない意志”。
「……守りたいだけです」
そう答えた声。
あれが、演技でなかったことくらい——分かっている。
「殿下」
官僚が声をかける。
「対応はいかがなさいますか」
現実に引き戻される。
皇太子は、ゆっくりと報告書を閉じた。
「監視は継続」
「ですが——」
「手出しはするな」
即答だった。
「王国の領分だ」
一拍置く。
「——少なくとも、表向きはな」
官僚は理解した。
「では、裏では」
皇太子の視線が、わずかに鋭くなる。
「アルベルトは動いているか」
「既に。独自行動に近い形で」
「……だろうな」
ため息にも似た息。
「あいつは優秀だ。優秀すぎる」
それが何を意味するか——この場の誰もが理解していた。
「切り捨てる判断が、早すぎる」
静かに言う。
「人も、可能性もな」
窓の外へと目を向ける。
「だからこそ、必要でもあるが」
そして——
もう一つの存在へと思考が向く。
ヴェストファーレン公。
「……あの方は」
言葉が、わずかに止まる。
「どう見ていると思う?」
官僚は答えられない。
答えが“人間の範囲にない”ことを知っているからだ。
皇太子は、自嘲気味に笑った。
「愚問か」
あの存在は——
もはや“人”ではない。
帝国を支配する、絶対的な何か。
「……だが」
視線が、再び報告書へ落ちる。
セラ——セリス。
「それでも、私は」
小さく呟く。
「選ばせる」
誰にでもなく。
「人として」
その言葉は、静かに空気に溶けた。
「殿下」
「なんだ」
「万が一、“対象”が制御不能となった場合は」
一瞬の沈黙。
だが——
答えは決まっていた。
「——その時は」
ゆっくりと口を開く。
「私が出る」
空気が凍る。
それは、国家レベルの決断だった。
「よろしいのですか」
「構わない」
即答。
「これは——政治ではない」
一歩、前へ。
「選択の問題だ」
その目は、揺るがない。
神でも。
悪魔でも。
そのどちらでもなく。
「人間として、どうするか」
それだけを見ていた。
——場面は切り替わる。
遠く、王国。
セリスはまだ知らない。
自分が、どれほどの存在に見られているのかを。
神。
悪魔。
そして——
人間。
三つの意志が、静かに交差し始めていた。
いつも応援ありがとうございます。
セリスの選ぶ「非合理な正しさ」と、それによって少しずつ変わり始める魔剣の関係性。書いていて私自身も、意志の力が世界にどう抗えるのかを考えさせられます。
実は、この『魔剣』とは正反対の「超合理的・現実的」な視点で歴史を再構築する物語も並行して執筆しています。
『室町ホールディングス再興録 〜過労死コンサル、足利義昭に転生す〜』
https://ncode.syosetu.com/n6067lz/
こちらは『魔剣』とは打って変わって、現代のビジネス知識で戦国の世を「ホワイト化」しようと奮闘するコメディ寄りの戦記です。
「意志」で戦うセリスと、「知略とシステム」で戦う義昭。
アプローチは真逆ですが、「理不尽な運命をどう塗り替えるか」という根底のテーマは共通しています。
もしよろしければ、息抜きがてら覗いていただけると嬉しいです。あちらの信長も、なかなかに「非合理」な男ですよ。




